Q&A

Q&A

Q

今まで生きてきて後悔していることはありますか?(8歳・女子)

こたえたおとなたち
  • 浪曲曲師(三味線奏者)

    玉川祐子さん

  • 看護師・日本赤十字看護大学名誉教授

    川嶋みどりさん

  • 本多劇場グループ代表・俳優

    本多一夫さん

  • 薬剤師

    幡本圭左さん

プロフィール

玉川祐子

浪曲曲師(三味線奏者)

玉川祐子(タマガワユウコ)さん

とにかく声が大きい。そして、よく笑う。100歳を超えていることをつい忘れてしまう。祐子さんと話していると、こちらまで元気になってきます。
1922年生まれ。子どもの頃、家はとても貧しく、小学校を卒業すると呉服店へ奉公(店や家に住み込みなどで働き、仕事を覚えること)に出された祐子さん。そこで、となりのレコード屋から聞こえてきた浪曲(三味線に合わせて、物語を節をつけて語る日本の芸能)に夢中になります。
「浪曲師になりたい」。父親に「6人きょうだいなんだから、一人死んだと思って東京へやってよ」と頼みこみ、18歳のときにひとり東京へ。ところが、頼ったいとこには、「おまえみたいのが浪花節になれるわけねえ」と笑われます。
それでもあきらめず、浅草へ。住みこみで修業を始め、そのまま浪曲の世界を歩み続けました。
「100年生きて、いちばん笑ったことは?」と聞くと、「いつもにこやかで笑ってるよ! 私はね、根が“陽”なんですよ」。住みこんだ先々でも、その明るい性格で近所の人たちにかわいがられたそうです。
やがて戦争が激しくなり、東京では空襲も経験します。戦争が終わったあとも浪曲の世界で、曲師として三味線を弾き続けてきました。
貧乏も、奉公も、修業も、戦争も、二度の結婚も――100年以上生きれば、そりゃあ、いろいろあります。それでも祐子さんの口から出てきたのは、
「後悔したことはないなあ。マジな話」。
103歳の今も、現役の曲師として舞台に立っています。
三味線を弾いて、しゃべって、笑う。今日も祐子さんの大きな声が響きます。

A

後悔したことはないなあ。マジな話

別に、それはないね。

 

 

幸せ! 幸せで今日まで来た!

 

 

後悔したことはないなあ。マジな話。

 

 

わたし今103歳ですからね。この歳までこうやって元気でいると思わなかったし。

 

 

おかげさまでね、舞台にあがれば30分、今でも三味線引いてます。

取材・文/Questionary編集部

Q&A / 2026.10.07

プロフィール

玉川祐子

浪曲曲師(三味線奏者)

玉川祐子(タマガワユウコ)さん

とにかく声が大きい。そして、よく笑う。100歳を超えていることをつい忘れてしまう。祐子さんと話していると、こちらまで元気になってきます。
1922年生まれ。子どもの頃、家はとても貧しく、小学校を卒業すると呉服店へ奉公(店や家に住み込みなどで働き、仕事を覚えること)に出された祐子さん。そこで、となりのレコード屋から聞こえてきた浪曲(三味線に合わせて、物語を節をつけて語る日本の芸能)に夢中になります。
「浪曲師になりたい」。父親に「6人きょうだいなんだから、一人死んだと思って東京へやってよ」と頼みこみ、18歳のときにひとり東京へ。ところが、頼ったいとこには、「おまえみたいのが浪花節になれるわけねえ」と笑われます。
それでもあきらめず、浅草へ。住みこみで修業を始め、そのまま浪曲の世界を歩み続けました。
「100年生きて、いちばん笑ったことは?」と聞くと、「いつもにこやかで笑ってるよ! 私はね、根が“陽”なんですよ」。住みこんだ先々でも、その明るい性格で近所の人たちにかわいがられたそうです。
やがて戦争が激しくなり、東京では空襲も経験します。戦争が終わったあとも浪曲の世界で、曲師として三味線を弾き続けてきました。
貧乏も、奉公も、修業も、戦争も、二度の結婚も――100年以上生きれば、そりゃあ、いろいろあります。それでも祐子さんの口から出てきたのは、
「後悔したことはないなあ。マジな話」。
103歳の今も、現役の曲師として舞台に立っています。
三味線を弾いて、しゃべって、笑う。今日も祐子さんの大きな声が響きます。

プロフィール

川嶋みどり

看護師・日本赤十字看護大学名誉教授

川嶋みどり(カワシマミドリ)さん

現役看護師・川嶋みどりさん。看護師になってから、75年になります。
1931年5月18日、当時、日本が植民地として支配していた京城(現在の韓国・ソウル)で、6人きょうだいの長女として生まれました。父親の仕事のため、子どもの頃は家族で何度も引っ越し、戦争が終わると日本へ戻りました。
20歳で看護師になり、日本赤十字社中央病院の小児病棟へ。戦争に負けたあとの日本では、薬や医療機器が足りませんでした。さらに連合国軍の占領下にあり、その命令によって、親が子どもに付き添って病院に泊まることもできません。そこで、看護師たちが親代わりとなって子どもたちの世話をしていました。
それでも助けることができず、亡くなった子どもは少なくありません。70年以上がたった今も、川嶋さんはその子たちの名前を一人ひとり、フルネームで覚えているそうです。
それからずっと、「看護とは何か」「人に寄り添うとはどういうことか」を考え続けてきました。2007年には、すぐれた看護活動をした人に贈られる世界的な賞「フローレンス・ナイチンゲール記章」を受章しました。
今も全国で講演をし、そこで必ず語るのが、自分の戦争体験です。
「一人殺せば犯罪なのに、戦争になると大勢殺したほうがほめられてしまう。そんなことは、人間がしてはいけないことだと思います」
そんな川嶋さんが大切にしているのが、「一日に一つ知る」という「一日一知」ではなく、「一分に一つ知る」という「一分一知」。最近では、AIについて学ぶセミナーにもみずから足を運んだそうです。
95歳になった今も、知らないことを知ろうとする。そして、看護、命、平和について、次の世代に伝え続けています。

A

どうしてあのとき、「ありがとう」って言えなかったんだろう

母のことですね。

 

 

母は最後の10年くらい、私と一緒に暮らしていました。病気で、体の片側が思うように動かなかったんです。

 

 

母はよく、「私は幸せよ」って言ってくれていました。

 

 

でも、その言葉を聞くたびに、私はなぜか素直に受け止められなかったんですね。

 

 

今になって思うのは、どうしてあのとき、「ありがとう」って言えなかったんだろう、ということです。

 

 

私は母に、「寝たきりになったらだめだから、起きていなさい」なんて、厳しいことばかり言っていました。

 

 

仕事から帰ると、母は不自由な足で杖をつきながら、玄関まで迎えに来てくれるんです。

 

 

そして、私がまだ靴も脱がないうちから、「今日ね、宅急便が来たのよ」「〇〇さんから電話があったのよ」って、一生懸命話してくれる。

 

 

私は、「ちょっと待って。着替えてから聞くから」なんて言ってしまうんです。

そんなことの繰り返しでした。

 

 

大学では、高齢者の看護について学生に教えていたのに、家に帰れば、私は看護師じゃなくただの娘で、教えていたことは全然できていませんでした。

 

 

母には、もっと「ありがとう」って伝えればよかった。

 

 

それが、今でも一番後悔していることです。

取材・文/Questionary編集部

Q&A / 2026.10.07

プロフィール

川嶋みどり

看護師・日本赤十字看護大学名誉教授

川嶋みどり(カワシマミドリ)さん

現役看護師・川嶋みどりさん。看護師になってから、75年になります。
1931年5月18日、当時、日本が植民地として支配していた京城(現在の韓国・ソウル)で、6人きょうだいの長女として生まれました。父親の仕事のため、子どもの頃は家族で何度も引っ越し、戦争が終わると日本へ戻りました。
20歳で看護師になり、日本赤十字社中央病院の小児病棟へ。戦争に負けたあとの日本では、薬や医療機器が足りませんでした。さらに連合国軍の占領下にあり、その命令によって、親が子どもに付き添って病院に泊まることもできません。そこで、看護師たちが親代わりとなって子どもたちの世話をしていました。
それでも助けることができず、亡くなった子どもは少なくありません。70年以上がたった今も、川嶋さんはその子たちの名前を一人ひとり、フルネームで覚えているそうです。
それからずっと、「看護とは何か」「人に寄り添うとはどういうことか」を考え続けてきました。2007年には、すぐれた看護活動をした人に贈られる世界的な賞「フローレンス・ナイチンゲール記章」を受章しました。
今も全国で講演をし、そこで必ず語るのが、自分の戦争体験です。
「一人殺せば犯罪なのに、戦争になると大勢殺したほうがほめられてしまう。そんなことは、人間がしてはいけないことだと思います」
そんな川嶋さんが大切にしているのが、「一日に一つ知る」という「一日一知」ではなく、「一分に一つ知る」という「一分一知」。最近では、AIについて学ぶセミナーにもみずから足を運んだそうです。
95歳になった今も、知らないことを知ろうとする。そして、看護、命、平和について、次の世代に伝え続けています。

プロフィール

本多一夫

本多劇場グループ代表・俳優

本多一夫(ホンダカズオ)さん

「やっぱり夢は持ったほうがいいね」
1934年7月11日、北海道・札幌生まれ。意外にも、子どもの頃はとても人見知りでした。ひとりっ子で、ひとりで過ごすことも多かったそうです。
ところが、小学校5、6年生のころには、「小さくてもいいから、自分の芝居小屋を作りたい」と思っていました。卒業するときには、クラスのみんながその夢を応援してくれて、本多さん自身もおばあちゃん役で舞台に立ちます。
高校卒業後、本格的に芝居を学ぶため上京し、映画会社・新東宝へ。俳優として歩み始めますが、会社が倒産し、役者を続けることをあきらめます。その後、下北沢で小さな飲食店を始めたところ、これが大繁盛。やがて約40店舗まで店を増やしました。
それでも、芝居への思いは消えませんでした。
「芝居をやりたい人たちが、思いきりできる場所を作ろう」
そう考え、1982年に本多劇場をオープン。現在、本多劇場グループには9つの劇場があります。たくさんの役者や劇団が集まるようになり、下北沢は「演劇の街」と呼ばれるようになりました。
そして92歳になった今も、自ら舞台に立っています。
「そこで誰かに感動を与えられたらうれしい。人の喜びが、自分の感動なんだね」
舞台に立ち続ける理由を、本多さんはそう話します。
今、やってみたいのは、小さな劇場でのパントマイム(言葉を使わず、体の動きで表現する芝居)のひとり芝居です。
「やりたいと思ったことは、思いきってやることだよ」
子どもの頃の夢をかなえた今も、それでおしまいではありません。92歳の本多さんは、また次の夢を描いています。

A

心の中ではずっと「もう一度、役者をやりたい」と思っていた

後悔なんてないね。

 

 

ただ、いちばん失敗したと思うのは、一生、役者として生きられなかったことだね。

 

 

役者になるために入った会社がつぶれて、それで役者をあきらめて、小さな飲み屋を始めたんです。

 

 

10人くらいしか座れない店だったけど、それが大人気になってね。次の店も、その次の店もうまくいって、結局40くらいまでお店が増えた。

 

 

でも、心の中ではずっと「もう一度、役者をやりたい」と思っていた。

 

 

それで、お店でお金を稼げるようになったとき、

「よし、それなら劇場を作ってやろう!」

って思ったんです。

 

 

芝居をやりたい人たちが、思いきり芝居のできる場所を作ろうって。

 

 

飲食店と劇場って、オレにとっては同じなんですよ。

 

 

いつ行っても楽しくお酒が飲める。いつ観ても、みんながお芝居を楽しめる。

 

 

どちらも、人に喜んでもらうためにある。

 

 

そうやって、人が楽しめる場所を作るのが、オレは好きなんです。

取材・文/Questionary編集部

Q&A / 2026.10.07

プロフィール

本多一夫

本多劇場グループ代表・俳優

本多一夫(ホンダカズオ)さん

「やっぱり夢は持ったほうがいいね」
1934年7月11日、北海道・札幌生まれ。意外にも、子どもの頃はとても人見知りでした。ひとりっ子で、ひとりで過ごすことも多かったそうです。
ところが、小学校5、6年生のころには、「小さくてもいいから、自分の芝居小屋を作りたい」と思っていました。卒業するときには、クラスのみんながその夢を応援してくれて、本多さん自身もおばあちゃん役で舞台に立ちます。
高校卒業後、本格的に芝居を学ぶため上京し、映画会社・新東宝へ。俳優として歩み始めますが、会社が倒産し、役者を続けることをあきらめます。その後、下北沢で小さな飲食店を始めたところ、これが大繁盛。やがて約40店舗まで店を増やしました。
それでも、芝居への思いは消えませんでした。
「芝居をやりたい人たちが、思いきりできる場所を作ろう」
そう考え、1982年に本多劇場をオープン。現在、本多劇場グループには9つの劇場があります。たくさんの役者や劇団が集まるようになり、下北沢は「演劇の街」と呼ばれるようになりました。
そして92歳になった今も、自ら舞台に立っています。
「そこで誰かに感動を与えられたらうれしい。人の喜びが、自分の感動なんだね」
舞台に立ち続ける理由を、本多さんはそう話します。
今、やってみたいのは、小さな劇場でのパントマイム(言葉を使わず、体の動きで表現する芝居)のひとり芝居です。
「やりたいと思ったことは、思いきってやることだよ」
子どもの頃の夢をかなえた今も、それでおしまいではありません。92歳の本多さんは、また次の夢を描いています。

プロフィール

幡本圭左

薬剤師

幡本圭左(ハタモトケサ)さん

「大切なその時々で、私は本当に人に助けられているの」
103歳の幡本さんが人生を振り返ると、不思議なくらい、必要なときに必要な人との出会いがあったといいます。
1922年、長野県生まれ。もともとは小学校の先生になりたかったそうですが、「これからの時代、女性も手に職を」という父親のすすめで薬剤師の道へ。東京薬学専門学校女子部(現在の東京薬科大学)を卒業し、戦争中は軍需工場(戦争で使うものをつくる工場)の研究室で働きました。
結婚後の1952年、30歳で東京・目黒に「安全薬局」を開きます。これから何を学ぼうかと迷っていたときには、「これからは漢方よ」と教えてくれる人が現れました。
年下の友人に「あなたはダメね」と言われても、「本当にダメなんだから腹が立たない(笑)」。人から何か言われたときも、まずは素直に聞いてみる。そんなふうにして、103年を歩んできました。
もちろん、長い人生には大変なこともありました。でも、起きてしまったことは仕方ない。「あわてない、急がない」が、幡本さんのモットーです。
もうひとつ、大切にしている言葉があります。
「身体髪膚(しんたいはっぷ)、これを父母に受く」。
中国の昔の本『孝経』にある言葉で、「自分の体は、すべて親からもらった大切なもの」という意味です。
2022年には、世界最高齢の薬剤師としてギネス世界記録に認定されました。
「海外の方が取材にやってきたりして、とても気恥ずかしいです」
そんなふうに笑う幡本さんは、103歳の今も「安全薬局」に立つ現役の薬剤師。お客さんと顔を合わせ、いろいろな話をするのが、今も楽しみなのだそうです。

A

親孝行を全然してこなかったんですよね

親孝行を全然してこなかったんですよね。

 

 

してもらってばかりでした。

 

 

だから、そのことはちょっと後悔しています。

 

 

母はあまり丈夫な人ではなかったですから。

 

取材・文/Questionary編集部

Q&A / 2026.10.07

プロフィール

幡本圭左

薬剤師

幡本圭左(ハタモトケサ)さん

「大切なその時々で、私は本当に人に助けられているの」
103歳の幡本さんが人生を振り返ると、不思議なくらい、必要なときに必要な人との出会いがあったといいます。
1922年、長野県生まれ。もともとは小学校の先生になりたかったそうですが、「これからの時代、女性も手に職を」という父親のすすめで薬剤師の道へ。東京薬学専門学校女子部(現在の東京薬科大学)を卒業し、戦争中は軍需工場(戦争で使うものをつくる工場)の研究室で働きました。
結婚後の1952年、30歳で東京・目黒に「安全薬局」を開きます。これから何を学ぼうかと迷っていたときには、「これからは漢方よ」と教えてくれる人が現れました。
年下の友人に「あなたはダメね」と言われても、「本当にダメなんだから腹が立たない(笑)」。人から何か言われたときも、まずは素直に聞いてみる。そんなふうにして、103年を歩んできました。
もちろん、長い人生には大変なこともありました。でも、起きてしまったことは仕方ない。「あわてない、急がない」が、幡本さんのモットーです。
もうひとつ、大切にしている言葉があります。
「身体髪膚(しんたいはっぷ)、これを父母に受く」。
中国の昔の本『孝経』にある言葉で、「自分の体は、すべて親からもらった大切なもの」という意味です。
2022年には、世界最高齢の薬剤師としてギネス世界記録に認定されました。
「海外の方が取材にやってきたりして、とても気恥ずかしいです」
そんなふうに笑う幡本さんは、103歳の今も「安全薬局」に立つ現役の薬剤師。お客さんと顔を合わせ、いろいろな話をするのが、今も楽しみなのだそうです。

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