まわりの子たちがうらやましかったけど、言葉には出さなかった
これは立派なネグレクト(育児放棄)ですが、この話を聞いたとき思ったのは「そうか、だからオレはキュウリが大好きなんだなあ」でした。
3歳の頃から、近所の子どもたちが両親のことをパパ、ママと呼んでいるのに、僕の家では同じ関係の人をおじさん、おばさんと呼んでいたり、茅ヶ崎から東京までひとりで電車に乗って、もうひとりの叔母のもとで古典芸能の長唄の稽古をしたりしていて、なにかほかの家と違うなあとは思っていました。
この頃からずっと『うらやましい』という言葉を使ったことがないんです。
当然まわりの子たちがうらやましかったけど、言葉には出さなかった。自分のことは自分の中で処理すれば、我慢すれば、世の中すべてうまくいくーー。そう思っていました。
茅ヶ崎のおばさんは気分屋でこわかったです。
虫のいどころが悪いと頭から熱々の味噌汁をかけられたり、風を引いただけで怒られたり。
学校に行っている間も、『家に帰ったらおばさんがいて、めちゃくちゃ怒られる』ことを考えると、100%楽しめないんですよ。
だから、友達はいたけど親友がいなかったです。みんな両親がいて、裕福な家庭の子も結構多くて、相談してもわかり合えなかったから。
でも、自分より苦労している人はいっぱいいるんだ、という気持ちは常にありました。その理由は、5歳になったある日のこと。いつも同じ時間に家の前を通りかかる新聞配達のお兄ちゃんが、自転車の後ろに乗せてくれて、通りをぐるぐるまわって遊んでくれたんです。お兄ちゃんに、「なんで新聞配達やってるの?」と聞いたら「学校行くためなんだ。いろいろ大変なんだよ」って。「でも、こうやって遊べるだけ幸せなんだよねえ」。
僕には住む家もあって、ご飯も食べられる。すごい幸せなことだと思ったのを、今でもはっきり覚えています。
ご両親がいて、小中高、大学を出て社会人になるのが”普通”なんだろうけども、そういう“普通”の人たちが経験できないことをたくさん経験してきました。
中学2年生のとき決死の覚悟で茅ヶ崎の家を飛び出して、熱海にいた本当の父親のところに駆けこんだり、でもそこでの暮らしもうまくいかなくて、高校生になってからはデパートでアルバイトをしながら、熱海のネオン街のど真ん中でひとり暮らしを始めたりーー。
この中学2年生から高校1年生までは、正直「いつ死のうかな」と思っていました。実際、首を吊ろうとしたり(となりの家のおばあちゃんが助けてくれた)、夜の海にも防波堤から身を投げたり(潮が引いていて浅くて助かった)、部屋でお腹に包丁を刺そうとしたらとなりの部屋のお兄ちゃんが「おーい、これ食うかあ?」と急に入ってきて止めてくれたり。
そして気がついたんです、僕はたくさんの人に支えられて生きていると。
生きるか死ぬか、という毎日を経て、まわりの方々への感謝の気持ちが生まれてきたんです。
以前いとこに「ヒロちゃんは社会が育ててくれたのよ」と言われたことがありますが、その通り。高校2年生で死のうと思ことをやめてからは、いろいろな方にお世話になりながら、前を向いて生きてきました。本当、感謝しかないです。
今は、妻のご両親に「お父さん」「お母さん」と普通に言えることが何よりも嬉しい。妻が「あ、ママからライン来た」と言って、「え、お母さんからライン来たの?」と言えるだけで、心臓がバクバクします。
箱根に4人で行ったときなんて、お父さんと一緒に大浴場行って、うれしくてドキドキして、涙が止まらなくなっちゃって。「お父さんとお風呂に行くって、こういう気持ちなんだ」って。温泉だから湯気で涙がバレなくて、よかったです。
実はね、「おかわり」って今でも言えないんです。ずっとそれで来ちゃったんで、妻にお願いするときも、お茶碗をそっと渡して「(おかわり)いいかな」って。「小さい声じゃなくて大きい声で言いなさい」って妻は怒るんですけどね。僕は怒られるのが嬉しいんですよ。「こぼさないで」って言われると、嬉しくてしょうがない。「ちょっと私怒ってんだけど〜。“ありがとう’じゃなくて”ごめんなさい”、でしょ!」って、もちろん妻もわかって言ってるんですけどね。
そうやって言ってくれるって、本当、感謝しかないです。