INTERVIEW

INTERVIEW

When I was your age

「わたしが君の年だったころ」

プロフィール

DJ・HAGGY

『1歳で両親に捨てられた僕が湘南でラジオDJになった話』著者

DJ・HAGGY(ディージェイ・ハギー)さん

DJ・HAGGY(本名:萩原浩一/はぎわらひろかず) ラジオDJ・教師
湘南出身・在住。物心ついた頃から親と離れて暮らす。小学校5年生の頃、京都で入院した病院でラジオの魅力に目覚め、ラジオDJになる夢を抱く。高校卒業後、厚生事務官として厚生省精神科神経科療養所や国立小児病院で働きながら、大学にも通う。卒業後はご縁あって教師(公立中学校、私立中学校高等学校、学習塾&予備校勤務)の道へ。平成8年4月28日、レディオ湘南にてDJ・HAGGYとしてスタートした朝の番組は、24年間、6000回以上の放送回数を重ね、土日以外は朝3時起きの生活を続ける。現在もお世話になった地元への恩返しの気持ちを込めて、数多くの親善大使やアンバサダーを務めている。また、多摩大学湘南キャンパス・グローバルスタディーズ学部グローバルスタディーズ学科と、目白大学新宿キャンパス・メディア学部メディア学科の非常勤講師も務める。著書に『1歳で両親に捨てられた僕が湘南でラジオDJになった話』(文芸社)。HP:https://www.djhaggy.com

まわりの子たちがうらやましかったけど、言葉には出さなかった

大人になってから聞いたんですが、1歳の頃、僕はきゅうりと牛乳しか口にしていなかったそうです。アパートの大家さんが僕の低体重に気づき、心配して祖母に電話して、それ以来、親から離れて茅ヶ崎(神奈川県)の叔父叔母の家で、祖母とも一緒に暮らしていました。
これは立派なネグレクト(育児放棄)ですが、この話を聞いたとき思ったのは「そうか、だからオレはキュウリが大好きなんだなあ」でした。

3歳の頃から、近所の子どもたちが両親のことをパパ、ママと呼んでいるのに、僕の家では同じ関係の人をおじさん、おばさんと呼んでいたり、茅ヶ崎から東京までひとりで電車に乗って、もうひとりの叔母のもとで古典芸能の長唄の稽古をしたりしていて、なにかほかの家と違うなあとは思っていました。

この頃からずっと『うらやましい』という言葉を使ったことがないんです。
当然まわりの子たちがうらやましかったけど、言葉には出さなかった。自分のことは自分の中で処理すれば、我慢すれば、世の中すべてうまくいくーー。そう思っていました。

茅ヶ崎のおばさんは気分屋でこわかったです。
虫のいどころが悪いと頭から熱々の味噌汁をかけられたり、風を引いただけで怒られたり。
学校に行っている間も、『家に帰ったらおばさんがいて、めちゃくちゃ怒られる』ことを考えると、100%楽しめないんですよ。
だから、友達はいたけど親友がいなかったです。みんな両親がいて、裕福な家庭の子も結構多くて、相談してもわかり合えなかったから。

でも、自分より苦労している人はいっぱいいるんだ、という気持ちは常にありました。その理由は、5歳になったある日のこと。いつも同じ時間に家の前を通りかかる新聞配達のお兄ちゃんが、自転車の後ろに乗せてくれて、通りをぐるぐるまわって遊んでくれたんです。お兄ちゃんに、「なんで新聞配達やってるの?」と聞いたら「学校行くためなんだ。いろいろ大変なんだよ」って。「でも、こうやって遊べるだけ幸せなんだよねえ」。
僕には住む家もあって、ご飯も食べられる。すごい幸せなことだと思ったのを、今でもはっきり覚えています。

ご両親がいて、小中高、大学を出て社会人になるのが”普通”なんだろうけども、そういう“普通”の人たちが経験できないことをたくさん経験してきました。
中学2年生のとき決死の覚悟で茅ヶ崎の家を飛び出して、熱海にいた本当の父親のところに駆けこんだり、でもそこでの暮らしもうまくいかなくて、高校生になってからはデパートでアルバイトをしながら、熱海のネオン街のど真ん中でひとり暮らしを始めたりーー。

この中学2年生から高校1年生までは、正直「いつ死のうかな」と思っていました。実際、首を吊ろうとしたり(となりの家のおばあちゃんが助けてくれた)、夜の海にも防波堤から身を投げたり(潮が引いていて浅くて助かった)、部屋でお腹に包丁を刺そうとしたらとなりの部屋のお兄ちゃんが「おーい、これ食うかあ?」と急に入ってきて止めてくれたり。

そして気がついたんです、僕はたくさんの人に支えられて生きていると。
生きるか死ぬか、という毎日を経て、まわりの方々への感謝の気持ちが生まれてきたんです。

以前いとこに「ヒロちゃんは社会が育ててくれたのよ」と言われたことがありますが、その通り。高校2年生で死のうと思ことをやめてからは、いろいろな方にお世話になりながら、前を向いて生きてきました。本当、感謝しかないです。

今は、妻のご両親に「お父さん」「お母さん」と普通に言えることが何よりも嬉しい。妻が「あ、ママからライン来た」と言って、「え、お母さんからライン来たの?」と言えるだけで、心臓がバクバクします。

箱根に4人で行ったときなんて、お父さんと一緒に大浴場行って、うれしくてドキドキして、涙が止まらなくなっちゃって。「お父さんとお風呂に行くって、こういう気持ちなんだ」って。温泉だから湯気で涙がバレなくて、よかったです。

実はね、「おかわり」って今でも言えないんです。ずっとそれで来ちゃったんで、妻にお願いするときも、お茶碗をそっと渡して「(おかわり)いいかな」って。「小さい声じゃなくて大きい声で言いなさい」って妻は怒るんですけどね。僕は怒られるのが嬉しいんですよ。「こぼさないで」って言われると、嬉しくてしょうがない。「ちょっと私怒ってんだけど〜。“ありがとう’じゃなくて”ごめんなさい”、でしょ!」って、もちろん妻もわかって言ってるんですけどね。
そうやって言ってくれるって、本当、感謝しかないです。

取材・文/Questionary編集部

INTERVIEW / 2023.11.29

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DJ・HAGGY

『1歳で両親に捨てられた僕が湘南でラジオDJになった話』著者

DJ・HAGGY(ディージェイ・ハギー)さん

DJ・HAGGY(本名:萩原浩一/はぎわらひろかず) ラジオDJ・教師
湘南出身・在住。物心ついた頃から親と離れて暮らす。小学校5年生の頃、京都で入院した病院でラジオの魅力に目覚め、ラジオDJになる夢を抱く。高校卒業後、厚生事務官として厚生省精神科神経科療養所や国立小児病院で働きながら、大学にも通う。卒業後はご縁あって教師(公立中学校、私立中学校高等学校、学習塾&予備校勤務)の道へ。平成8年4月28日、レディオ湘南にてDJ・HAGGYとしてスタートした朝の番組は、24年間、6000回以上の放送回数を重ね、土日以外は朝3時起きの生活を続ける。現在もお世話になった地元への恩返しの気持ちを込めて、数多くの親善大使やアンバサダーを務めている。また、多摩大学湘南キャンパス・グローバルスタディーズ学部グローバルスタディーズ学科と、目白大学新宿キャンパス・メディア学部メディア学科の非常勤講師も務める。著書に『1歳で両親に捨てられた僕が湘南でラジオDJになった話』(文芸社)。HP:https://www.djhaggy.com

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