別にないね。
どうしたらこんな明るくなれるかって?
もともとの性格ですよ。
見た目がよくなくても、人が喜ぶことを一生懸命しようって、そういう性格だから。
人に優しくすると、自分も気持ちがいいでしょ。
生きてきた中でいちばんパニックになったことはなんですか?(7歳・女子)

浪曲曲師(三味線奏者)
玉川祐子さん
看護師・日本赤十字看護大学名誉教授
川嶋みどりさん
左官
堀江弥太郎さん
本多劇場グループ代表・俳優
本多一夫さん
現役トライアスリート
稲田弘さん

とにかく声が大きい。そして、よく笑う。100歳を超えていることをつい忘れてしまう。祐子さんと話していると、こちらまで元気になってきます。
1922年生まれ。子どもの頃、家はとても貧しく、小学校を卒業すると呉服店へ奉公(店や家に住み込みなどで働き、仕事を覚えること)に出された祐子さん。そこで、となりのレコード屋から聞こえてきた浪曲(三味線に合わせて、物語を節をつけて語る日本の芸能)に夢中になります。
「浪曲師になりたい」。父親に「6人きょうだいなんだから、一人死んだと思って東京へやってよ」と頼みこみ、18歳のときにひとり東京へ。ところが、頼ったいとこには、「おまえみたいのが浪花節になれるわけねえ」と笑われます。
それでもあきらめず、浅草へ。住みこみで修業を始め、そのまま浪曲の世界を歩み続けました。
「100年生きて、いちばん笑ったことは?」と聞くと、「いつもにこやかで笑ってるよ! 私はね、根が“陽”なんですよ」。住みこんだ先々でも、その明るい性格で近所の人たちにかわいがられたそうです。
やがて戦争が激しくなり、東京では空襲も経験します。戦争が終わったあとも浪曲の世界で、曲師として三味線を弾き続けてきました。
貧乏も、奉公も、修業も、戦争も、二度の結婚も――100年以上生きれば、そりゃあ、いろいろあります。それでも祐子さんの口から出てきたのは、
「後悔したことはないなあ。マジな話」。
103歳の今も、現役の曲師として舞台に立っています。
三味線を弾いて、しゃべって、笑う。今日も祐子さんの大きな声が響きます。

A
別にないね。
別にないね。
どうしたらこんな明るくなれるかって?
もともとの性格ですよ。
見た目がよくなくても、人が喜ぶことを一生懸命しようって、そういう性格だから。
人に優しくすると、自分も気持ちがいいでしょ。
取材・文/Questionary編集部

とにかく声が大きい。そして、よく笑う。100歳を超えていることをつい忘れてしまう。祐子さんと話していると、こちらまで元気になってきます。
1922年生まれ。子どもの頃、家はとても貧しく、小学校を卒業すると呉服店へ奉公(店や家に住み込みなどで働き、仕事を覚えること)に出された祐子さん。そこで、となりのレコード屋から聞こえてきた浪曲(三味線に合わせて、物語を節をつけて語る日本の芸能)に夢中になります。
「浪曲師になりたい」。父親に「6人きょうだいなんだから、一人死んだと思って東京へやってよ」と頼みこみ、18歳のときにひとり東京へ。ところが、頼ったいとこには、「おまえみたいのが浪花節になれるわけねえ」と笑われます。
それでもあきらめず、浅草へ。住みこみで修業を始め、そのまま浪曲の世界を歩み続けました。
「100年生きて、いちばん笑ったことは?」と聞くと、「いつもにこやかで笑ってるよ! 私はね、根が“陽”なんですよ」。住みこんだ先々でも、その明るい性格で近所の人たちにかわいがられたそうです。
やがて戦争が激しくなり、東京では空襲も経験します。戦争が終わったあとも浪曲の世界で、曲師として三味線を弾き続けてきました。
貧乏も、奉公も、修業も、戦争も、二度の結婚も――100年以上生きれば、そりゃあ、いろいろあります。それでも祐子さんの口から出てきたのは、
「後悔したことはないなあ。マジな話」。
103歳の今も、現役の曲師として舞台に立っています。
三味線を弾いて、しゃべって、笑う。今日も祐子さんの大きな声が響きます。

現役看護師・川嶋みどりさん。看護師になってから、75年になります。
1931年5月18日、当時、日本が植民地として支配していた京城(現在の韓国・ソウル)で、6人きょうだいの長女として生まれました。父親の仕事のため、子どもの頃は家族で何度も引っ越し、戦争が終わると日本へ戻りました。
20歳で看護師になり、日本赤十字社中央病院の小児病棟へ。戦争に負けたあとの日本では、薬や医療機器が足りませんでした。さらに連合国軍の占領下にあり、その命令によって、親が子どもに付き添って病院に泊まることもできません。そこで、看護師たちが親代わりとなって子どもたちの世話をしていました。
それでも助けることができず、亡くなった子どもは少なくありません。70年以上がたった今も、川嶋さんはその子たちの名前を一人ひとり、フルネームで覚えているそうです。
それからずっと、「看護とは何か」「人に寄り添うとはどういうことか」を考え続けてきました。2007年には、すぐれた看護活動をした人に贈られる世界的な賞「フローレンス・ナイチンゲール記章」を受章しました。
今も全国で講演をし、そこで必ず語るのが、自分の戦争体験です。
「一人殺せば犯罪なのに、戦争になると大勢殺したほうがほめられてしまう。そんなことは、人間がしてはいけないことだと思います」
そんな川嶋さんが大切にしているのが、「一日に一つ知る」という「一日一知」ではなく、「一分に一つ知る」という「一分一知」。最近では、AIについて学ぶセミナーにもみずから足を運んだそうです。
95歳になった今も、知らないことを知ろうとする。そして、看護、命、平和について、次の世代に伝え続けています。

A
小児病棟で、患者さんの具合が急に悪くなったとき
小児病棟で、患者さんの具合が急に悪くなったときです。
私は長いこと、子どもの病棟で働いていました。あの頃は戦争が終わって間もなくて、親は子どもと一緒に病院に泊まることができなかったんです。だから、看護師が親代わりでした。
2ヵ月、3ヵ月、半年と入院する子もたくさんいました。その子たちの具合が急に悪くなると、本当に胸が張りさけそうでした。
今でも名前をフルネームで言えるくらい、一人ひとり覚えています。亡くなった子のお母さんと、何十年も年賀状や電話のやり取りを続けたこともあります。
よく「時が薬」って言うでしょう。でも私は、ちょっと違うと思っています。
時間がたてば、悲しみがなくなるわけじゃない。ただ、少しずつ形が変わっていく。
私の息子も、40年以上前、20歳のときに交通事故で亡くなりました。でも今でも、私の中では生きています。
毎朝コーヒーを供えて、「おはよう」って話しかける。それが私にとって、悲しみと向き合う時間なんです。
取材・文/Questionary編集部

現役看護師・川嶋みどりさん。看護師になってから、75年になります。
1931年5月18日、当時、日本が植民地として支配していた京城(現在の韓国・ソウル)で、6人きょうだいの長女として生まれました。父親の仕事のため、子どもの頃は家族で何度も引っ越し、戦争が終わると日本へ戻りました。
20歳で看護師になり、日本赤十字社中央病院の小児病棟へ。戦争に負けたあとの日本では、薬や医療機器が足りませんでした。さらに連合国軍の占領下にあり、その命令によって、親が子どもに付き添って病院に泊まることもできません。そこで、看護師たちが親代わりとなって子どもたちの世話をしていました。
それでも助けることができず、亡くなった子どもは少なくありません。70年以上がたった今も、川嶋さんはその子たちの名前を一人ひとり、フルネームで覚えているそうです。
それからずっと、「看護とは何か」「人に寄り添うとはどういうことか」を考え続けてきました。2007年には、すぐれた看護活動をした人に贈られる世界的な賞「フローレンス・ナイチンゲール記章」を受章しました。
今も全国で講演をし、そこで必ず語るのが、自分の戦争体験です。
「一人殺せば犯罪なのに、戦争になると大勢殺したほうがほめられてしまう。そんなことは、人間がしてはいけないことだと思います」
そんな川嶋さんが大切にしているのが、「一日に一つ知る」という「一日一知」ではなく、「一分に一つ知る」という「一分一知」。最近では、AIについて学ぶセミナーにもみずから足を運んだそうです。
95歳になった今も、知らないことを知ろうとする。そして、看護、命、平和について、次の世代に伝え続けています。

「そんなこと聞かれても困っちゃうよ!」
そう言いながら、ユーモアたっぷりに、笑顔で子どもたちの質問に答えてくれる堀江さん。
1921年7月12日、東京生まれ。子どもの頃は、近所の子どもたちを引き連れて遊ぶガキ大将でした。中学校を卒業すると、左官(さかん。こてを使って、建物の壁や床などをきれいに塗る仕事)の道へ。それから80年以上、その技を磨き続けています。
21歳のとき、兵士として中国北部へ。24歳で戦争が終わると、当時のソ連のシベリアへ連れていかれ、4年間を過ごしました。
マイナス30度、40度にもなる寒さと、食べるものも十分にない暮らし。そこで堀江さんを助けたのが、左官の腕でした。大勢の日本人のなかで、左官ができる人はわずか3人。建物の壁や暖炉などをつくる仕事を任され、ときには貴重な白いパンをもらうことも。ほかの人より少しだけ、いいものを食べることができたそうです。
「だから俺は“シベリア貴族”になっちゃった(笑)」
日本へ帰ってからも、左官ひと筋。高い技術が認められ、2008年、87歳で、厚生労働省からすぐれた職人に贈られる「現代の名工」に選ばれました。その後、2012年に91歳で黄綬褒章も受章しています。
左官の道具「こて」で絵や模様をつくる鏝絵(こてえ)にも取り組み、自分で考えた方法や材料で、たくさんの作品を生み出してきました。
105歳の今も、自宅のアトリエで作品づくりを続けています。「人にあげるのがうれしい」と堀江さん。
そして取材が終わると、大好きなおせんべいをボリボリ。
そんな堀江さんの口ぐせは、「元気ですか?」。
「俺も元気だ。あなたも元気だ。それで十分なんだ」

A
戦争でシベリアにいたときだねえ
戦争でシベリアにいたときだねえ。
マイナス30度、40度になるんだから、寒いなんてもんじゃないよ!
夜も外にいるときとほとんど同じ格好で、靴を脱ぐだけで寝ていました。
仕事をするときは、寒さをしのぐために新聞紙なんかを体に巻いてね。ダイナマイトの火薬が入っていた紙袋を巻いた人が、たき火にあたっていたら、紙に残っていた火薬に火がついて、大けがをすることもありました。
食事も大変だったな。洗面器みたいなものに3、4人分がまとめて入っていて、早く食べないとなくなっちゃう。だから、自分で好きな形のスプーンを作って食べていました。
でも、私は左官の技術を持っていたから、ほかの人たちとは少し違う仕事を任されるようになったんです。
大勢の日本人がいたけど、左官ができるのはたった3人。ブロックを積んだり、柱や暖炉をつくったりしました。
そういえば、牢屋も作ったな。そしたらね、ちょっとルールを破ったときに、自分で作った牢屋に自分が入れられちゃった(笑)。
暖炉を作った家では、貴重な白いパンをもらうこともありました。ふだん食べていたのは、黒いパンとスープみたいなもの。だから、白いパンはごちそうだったよ。もらったパンはバケツに隠して持ち帰って、みんなにも分けました。
もちろん、つらいこともたくさんあったよ。石炭を掘るトンネルがくずれて、大勢の人が亡くなることもあった。
でもね、俺にとっては、「シベリアは寒くて、つらかった」だけじゃない。
左官の腕があったおかげで仕事を任されて、たまには白いパンまで食べられた。
だから、「シベリア貴族」なんだよ(笑)。
取材・文/Questionary編集部

「そんなこと聞かれても困っちゃうよ!」
そう言いながら、ユーモアたっぷりに、笑顔で子どもたちの質問に答えてくれる堀江さん。
1921年7月12日、東京生まれ。子どもの頃は、近所の子どもたちを引き連れて遊ぶガキ大将でした。中学校を卒業すると、左官(さかん。こてを使って、建物の壁や床などをきれいに塗る仕事)の道へ。それから80年以上、その技を磨き続けています。
21歳のとき、兵士として中国北部へ。24歳で戦争が終わると、当時のソ連のシベリアへ連れていかれ、4年間を過ごしました。
マイナス30度、40度にもなる寒さと、食べるものも十分にない暮らし。そこで堀江さんを助けたのが、左官の腕でした。大勢の日本人のなかで、左官ができる人はわずか3人。建物の壁や暖炉などをつくる仕事を任され、ときには貴重な白いパンをもらうことも。ほかの人より少しだけ、いいものを食べることができたそうです。
「だから俺は“シベリア貴族”になっちゃった(笑)」
日本へ帰ってからも、左官ひと筋。高い技術が認められ、2008年、87歳で、厚生労働省からすぐれた職人に贈られる「現代の名工」に選ばれました。その後、2012年に91歳で黄綬褒章も受章しています。
左官の道具「こて」で絵や模様をつくる鏝絵(こてえ)にも取り組み、自分で考えた方法や材料で、たくさんの作品を生み出してきました。
105歳の今も、自宅のアトリエで作品づくりを続けています。「人にあげるのがうれしい」と堀江さん。
そして取材が終わると、大好きなおせんべいをボリボリ。
そんな堀江さんの口ぐせは、「元気ですか?」。
「俺も元気だ。あなたも元気だ。それで十分なんだ」

「やっぱり夢は持ったほうがいいね」
1934年7月11日、北海道・札幌生まれ。意外にも、子どもの頃はとても人見知りでした。ひとりっ子で、ひとりで過ごすことも多かったそうです。
ところが、小学校5、6年生のころには、「小さくてもいいから、自分の芝居小屋を作りたい」と思っていました。卒業するときには、クラスのみんながその夢を応援してくれて、本多さん自身もおばあちゃん役で舞台に立ちます。
高校卒業後、本格的に芝居を学ぶため上京し、映画会社・新東宝へ。俳優として歩み始めますが、会社が倒産し、役者を続けることをあきらめます。その後、下北沢で小さな飲食店を始めたところ、これが大繁盛。やがて約40店舗まで店を増やしました。
それでも、芝居への思いは消えませんでした。
「芝居をやりたい人たちが、思いきりできる場所を作ろう」
そう考え、1982年に本多劇場をオープン。現在、本多劇場グループには9つの劇場があります。たくさんの役者や劇団が集まるようになり、下北沢は「演劇の街」と呼ばれるようになりました。
そして92歳になった今も、自ら舞台に立っています。
「そこで誰かに感動を与えられたらうれしい。人の喜びが、自分の感動なんだね」
舞台に立ち続ける理由を、本多さんはそう話します。
今、やってみたいのは、小さな劇場でのパントマイム(言葉を使わず、体の動きで表現する芝居)のひとり芝居です。
「やりたいと思ったことは、思いきってやることだよ」
子どもの頃の夢をかなえた今も、それでおしまいではありません。92歳の本多さんは、また次の夢を描いています。

A
1億円くらい借金があって、「これを返さなくちゃいけないな」って。それは苦労したよ。
劇場を作ったときかな。
「劇場って、こんなにお金がかかるんだ」って思ってね。
1億円くらい借金があって、「これを返さなくちゃいけないな」って。それは苦労したよ。
お金のことは全部奥さんにまかせていたから、奥さんは大変だったと思う。
俺はお金にはあんまり興味がなくて、楽しいことばかりしてたからね(笑)。
でも、最後は劇場で稼いだお金で全部返したよ。
取材・文/Questionary編集部

「やっぱり夢は持ったほうがいいね」
1934年7月11日、北海道・札幌生まれ。意外にも、子どもの頃はとても人見知りでした。ひとりっ子で、ひとりで過ごすことも多かったそうです。
ところが、小学校5、6年生のころには、「小さくてもいいから、自分の芝居小屋を作りたい」と思っていました。卒業するときには、クラスのみんながその夢を応援してくれて、本多さん自身もおばあちゃん役で舞台に立ちます。
高校卒業後、本格的に芝居を学ぶため上京し、映画会社・新東宝へ。俳優として歩み始めますが、会社が倒産し、役者を続けることをあきらめます。その後、下北沢で小さな飲食店を始めたところ、これが大繁盛。やがて約40店舗まで店を増やしました。
それでも、芝居への思いは消えませんでした。
「芝居をやりたい人たちが、思いきりできる場所を作ろう」
そう考え、1982年に本多劇場をオープン。現在、本多劇場グループには9つの劇場があります。たくさんの役者や劇団が集まるようになり、下北沢は「演劇の街」と呼ばれるようになりました。
そして92歳になった今も、自ら舞台に立っています。
「そこで誰かに感動を与えられたらうれしい。人の喜びが、自分の感動なんだね」
舞台に立ち続ける理由を、本多さんはそう話します。
今、やってみたいのは、小さな劇場でのパントマイム(言葉を使わず、体の動きで表現する芝居)のひとり芝居です。
「やりたいと思ったことは、思いきってやることだよ」
子どもの頃の夢をかなえた今も、それでおしまいではありません。92歳の本多さんは、また次の夢を描いています。

1932年、大阪生まれ。子どもの頃は戦争のまっただ中。疎開(戦争などの危険から逃れるために、都会から、より安全な地方へ引っ越すこと)した先では、アメリカ軍の戦闘機に3度も狙われました。
運動が得意な少年だったのかと思いきや、「実はまったくそんなことなくて」。負けず嫌いでもなく、ご本人いわく、「つくづくスポーツとは縁のない人生」だったそうです。
大学では山岳部に入り、卒業後はNHKへ就職。仕事で住む場所が変わっても、近くに山があれば、休みの日にひたすら歩きました。それが「今の自分の体力のもとになっている」と稲田さんは言います。
そして仕事を定年で退職した60歳。なんと、その3日後に水泳を始めます。70歳でトライアスロン(水泳、自転車、ランニングの3種目を続けて行うスポーツ)に挑戦。さらに、水泳3.8km、自転車180km、マラソン42.195km、合計約226kmを決められた時間内にすべてやりきるIRONMANにも挑むようになります。
80歳でIRONMAN世界選手権を初めて完走し、同じ年代の選手の中で世界チャンピオンに。82歳の大会では、ゴール目前で力尽き、しゃがみこむ姿をとらえた一枚の写真が世界中に広がりました。あと少しでゴールだったその姿を見て、世界中の人から応援の声が届きます。
そして85歳。ハワイで行われたIRONMAN世界選手権を16時間53分50秒で完走。世界最高齢の完走者として、ギネス世界記録に認定されました。
「スポーツとは縁のない人生」だった少年が、70歳を過ぎてから世界で活躍するトライアスリートに。そんな稲田さんが大切にしている言葉が、「やればできる」です。
93歳になった今も現役。練習を続けるなかで、新しい体の動かし方を発見することもあるそうです。そんなときは、うれしくなって「やったー!」と叫ぶことも。
記録を持っていても、まだ新しい発見がある。次の挑戦を楽しみながら、稲田さんは今日も体を動かしています。

A
僕自身、アメリカ軍の戦闘機に3回狙われたことがあるんです
僕は大阪生まれなんですけど、戦争が終わりに近づいた頃、大阪にはアメリカ軍の爆撃機(ばくだんを運んで地上を攻撃する飛行機)がよく来ていました。
家の近くには飛行場や兵器を作る工場があったので、「ここは爆撃されるから疎開しなさい」と言われて、両親の実家がある和歌山県の田辺市に移りました。
田辺市は海に近く、沖にはアメリカ軍の航空母艦(爆撃機が飛び立ったり、着陸したりできる大きな船)が来ていました。そこから、ものすごい数の爆撃機が飛んでくるんです。もうね、空が見えなくなるくらいですよ。
大阪へ向かって飛んでいって、帰りには余った爆弾を田辺市内に落としていく。友人をふくめ、大勢の人が亡くなりました。
それだけではありません。僕自身、アメリカ軍の戦闘機(空で敵の飛行機と戦う飛行機)に3回狙われたことがあるんです。
最初に狙われたのは、小学校5年生くらいのときでした。
当時は「勤労奉仕」といって、戦争のために子どもたちまで働かされていました。僕は父親と一緒に、軍隊の馬に食べさせる草を刈りに行っていたんです。
そしたら突然、ものすごい音がした。パッと後ろを振り返ったら、戦闘機がすぐそこまで来ていたんです。パイロットの顔まではっきり見えましたよ。
その瞬間、「バリバリバリバリ!」って音がした。機関砲(飛行機などにつけられた大きな銃のようなもの)です。
父親が、「飛行機の方へ向かって走れ!」って言うんですよ。背中を向けて逃げるんじゃなくて、逆に飛行機の方へ走れって。
もう夢中ですよ。体を低くして、飛行機の方へ向かってバーッと走りました。
2回目は、一人のときです。
大きな籠を背負って歩いていたら、また戦闘機が来た。近くに水を流す溝があったので、そこへ飛び込みました。
茂みの中で、しかも茨があってね。痛かったですよ。
「背中に穴が開くんじゃないか」と思いながら、じーっと動かずにいました。そうしたら、飛行機は僕を見失って行ってしまった。
3回目は、空襲警報が鳴って、8人くらいで洞窟の中に逃げ込んだときです。
日本軍が地上から飛行機を狙って撃った弾が、洞窟の入り口で爆発しました。入り口にいた人はけがをしましたが、僕は奥の方にいたので助かりました。
あの頃は空襲が多くて、学校にもあまり行けなかったんじゃないかな。
僕の同級生も、何人も亡くなりました。
3歳上の、一緒に遊んでいた子も、15歳で亡くなりました。若くして軍の飛行機乗りを目指す「予科練」に入ったんです。
僕も小学校4年生くらいの頃、それに憧れていました。
だから、もう少し歳が上だったら、僕も絶対に予科練に行っていたと思います。
今から考えると、恐ろしいですよね。
取材・文/Questionary編集部

1932年、大阪生まれ。子どもの頃は戦争のまっただ中。疎開(戦争などの危険から逃れるために、都会から、より安全な地方へ引っ越すこと)した先では、アメリカ軍の戦闘機に3度も狙われました。
運動が得意な少年だったのかと思いきや、「実はまったくそんなことなくて」。負けず嫌いでもなく、ご本人いわく、「つくづくスポーツとは縁のない人生」だったそうです。
大学では山岳部に入り、卒業後はNHKへ就職。仕事で住む場所が変わっても、近くに山があれば、休みの日にひたすら歩きました。それが「今の自分の体力のもとになっている」と稲田さんは言います。
そして仕事を定年で退職した60歳。なんと、その3日後に水泳を始めます。70歳でトライアスロン(水泳、自転車、ランニングの3種目を続けて行うスポーツ)に挑戦。さらに、水泳3.8km、自転車180km、マラソン42.195km、合計約226kmを決められた時間内にすべてやりきるIRONMANにも挑むようになります。
80歳でIRONMAN世界選手権を初めて完走し、同じ年代の選手の中で世界チャンピオンに。82歳の大会では、ゴール目前で力尽き、しゃがみこむ姿をとらえた一枚の写真が世界中に広がりました。あと少しでゴールだったその姿を見て、世界中の人から応援の声が届きます。
そして85歳。ハワイで行われたIRONMAN世界選手権を16時間53分50秒で完走。世界最高齢の完走者として、ギネス世界記録に認定されました。
「スポーツとは縁のない人生」だった少年が、70歳を過ぎてから世界で活躍するトライアスリートに。そんな稲田さんが大切にしている言葉が、「やればできる」です。
93歳になった今も現役。練習を続けるなかで、新しい体の動かし方を発見することもあるそうです。そんなときは、うれしくなって「やったー!」と叫ぶことも。
記録を持っていても、まだ新しい発見がある。次の挑戦を楽しみながら、稲田さんは今日も体を動かしています。