Q&A

Q&A

Q

死ぬことはこわくない?(7歳・男子)

こたえたおとなたち
  • 浪曲曲師(三味線奏者)

    玉川祐子さん

  • 看護師・日本赤十字看護大学名誉教授

    川嶋みどりさん

  • 左官

    堀江弥太郎さん

  • 本多劇場グループ代表・俳優

    本多一夫さん

  • 現役トライアスリート

    稲田弘さん

  • 薬剤師

    幡本圭左さん

プロフィール

玉川祐子

浪曲曲師(三味線奏者)

玉川祐子(タマガワユウコ)さん

とにかく声が大きい。そして、よく笑う。100歳を超えていることをつい忘れてしまう。祐子さんと話していると、こちらまで元気になってきます。
1922年生まれ。子どもの頃、家はとても貧しく、小学校を卒業すると呉服店へ奉公(店や家に住み込みなどで働き、仕事を覚えること)に出された祐子さん。そこで、となりのレコード屋から聞こえてきた浪曲(三味線に合わせて、物語を節をつけて語る日本の芸能)に夢中になります。
「浪曲師になりたい」。父親に「6人きょうだいなんだから、一人死んだと思って東京へやってよ」と頼みこみ、18歳のときにひとり東京へ。ところが、頼ったいとこには、「おまえみたいのが浪花節になれるわけねえ」と笑われます。
それでもあきらめず、浅草へ。住みこみで修業を始め、そのまま浪曲の世界を歩み続けました。
「100年生きて、いちばん笑ったことは?」と聞くと、「いつもにこやかで笑ってるよ! 私はね、根が“陽”なんですよ」。住みこんだ先々でも、その明るい性格で近所の人たちにかわいがられたそうです。
やがて戦争が激しくなり、東京では空襲も経験します。戦争が終わったあとも浪曲の世界で、曲師として三味線を弾き続けてきました。
貧乏も、奉公も、修業も、戦争も、二度の結婚も――100年以上生きれば、そりゃあ、いろいろあります。それでも祐子さんの口から出てきたのは、
「後悔したことはないなあ。マジな話」。
103歳の今も、現役の曲師として舞台に立っています。
三味線を弾いて、しゃべって、笑う。今日も祐子さんの大きな声が響きます。

A

生きたいってのは、欲ですよ、欲。

これはしょうがないよ、順番だから。

 

 

生きたいってのは、欲ですよ、欲。それがない人はいないよ。

 

 

自分ひとりでここまで来たなんて思っちゃいけない。

 

 

みなさんがいて、支えられてここまで来ることができたんだなあって、いつも思ってる。

 

 

好きな言葉は、やっぱり「感謝」だな。

 

 

感謝。その気持ちを忘れない。決してね。

取材・文/Questionary編集部

Q&A / 2026.10.11

プロフィール

玉川祐子

浪曲曲師(三味線奏者)

玉川祐子(タマガワユウコ)さん

とにかく声が大きい。そして、よく笑う。100歳を超えていることをつい忘れてしまう。祐子さんと話していると、こちらまで元気になってきます。
1922年生まれ。子どもの頃、家はとても貧しく、小学校を卒業すると呉服店へ奉公(店や家に住み込みなどで働き、仕事を覚えること)に出された祐子さん。そこで、となりのレコード屋から聞こえてきた浪曲(三味線に合わせて、物語を節をつけて語る日本の芸能)に夢中になります。
「浪曲師になりたい」。父親に「6人きょうだいなんだから、一人死んだと思って東京へやってよ」と頼みこみ、18歳のときにひとり東京へ。ところが、頼ったいとこには、「おまえみたいのが浪花節になれるわけねえ」と笑われます。
それでもあきらめず、浅草へ。住みこみで修業を始め、そのまま浪曲の世界を歩み続けました。
「100年生きて、いちばん笑ったことは?」と聞くと、「いつもにこやかで笑ってるよ! 私はね、根が“陽”なんですよ」。住みこんだ先々でも、その明るい性格で近所の人たちにかわいがられたそうです。
やがて戦争が激しくなり、東京では空襲も経験します。戦争が終わったあとも浪曲の世界で、曲師として三味線を弾き続けてきました。
貧乏も、奉公も、修業も、戦争も、二度の結婚も――100年以上生きれば、そりゃあ、いろいろあります。それでも祐子さんの口から出てきたのは、
「後悔したことはないなあ。マジな話」。
103歳の今も、現役の曲師として舞台に立っています。
三味線を弾いて、しゃべって、笑う。今日も祐子さんの大きな声が響きます。

プロフィール

川嶋みどり

看護師・日本赤十字看護大学名誉教授

川嶋みどり(カワシマミドリ)さん

現役看護師・川嶋みどりさん。看護師になってから、75年になります。
1931年5月18日、当時、日本が植民地として支配していた京城(現在の韓国・ソウル)で、6人きょうだいの長女として生まれました。父親の仕事のため、子どもの頃は家族で何度も引っ越し、戦争が終わると日本へ戻りました。
20歳で看護師になり、日本赤十字社中央病院の小児病棟へ。戦争に負けたあとの日本では、薬や医療機器が足りませんでした。さらに連合国軍の占領下にあり、その命令によって、親が子どもに付き添って病院に泊まることもできません。そこで、看護師たちが親代わりとなって子どもたちの世話をしていました。
それでも助けることができず、亡くなった子どもは少なくありません。70年以上がたった今も、川嶋さんはその子たちの名前を一人ひとり、フルネームで覚えているそうです。
それからずっと、「看護とは何か」「人に寄り添うとはどういうことか」を考え続けてきました。2007年には、すぐれた看護活動をした人に贈られる世界的な賞「フローレンス・ナイチンゲール記章」を受章しました。
今も全国で講演をし、そこで必ず語るのが、自分の戦争体験です。
「一人殺せば犯罪なのに、戦争になると大勢殺したほうがほめられてしまう。そんなことは、人間がしてはいけないことだと思います」
そんな川嶋さんが大切にしているのが、「一日に一つ知る」という「一日一知」ではなく、「一分に一つ知る」という「一分一知」。最近では、AIについて学ぶセミナーにもみずから足を運んだそうです。
95歳になった今も、知らないことを知ろうとする。そして、看護、命、平和について、次の世代に伝え続けています。

A

死ぬその瞬間まで、自分らしさを失わずに生きていたい

みんなが死んでいくんだから、死ぬこと自体は、それほど怖いことじゃないのかなとも思うんです。

 

 

自分が死んでも、人の命は次の世代へつながっていくでしょう。

 

 

ただ、死んだあとがどんな世界なのか、誰も教えてくれない。知らない世界へ行く怖さは、やっぱりありますよね。

 

 

それと、もう一つ心配なのは、私がちゃんと片付けていないこと(笑)。

 

 

「残された人は大変だろうなあ」と思うと、そう簡単には死ねないなって。

でも、一番願っているのは、どういう死に方をしたいかじゃありません。

 

 

死ぬその瞬間まで、自分らしさを失わずに生きていたい。

 

 

そう思っています。

取材・文/Questionary編集部

Q&A / 2026.10.11

プロフィール

川嶋みどり

看護師・日本赤十字看護大学名誉教授

川嶋みどり(カワシマミドリ)さん

現役看護師・川嶋みどりさん。看護師になってから、75年になります。
1931年5月18日、当時、日本が植民地として支配していた京城(現在の韓国・ソウル)で、6人きょうだいの長女として生まれました。父親の仕事のため、子どもの頃は家族で何度も引っ越し、戦争が終わると日本へ戻りました。
20歳で看護師になり、日本赤十字社中央病院の小児病棟へ。戦争に負けたあとの日本では、薬や医療機器が足りませんでした。さらに連合国軍の占領下にあり、その命令によって、親が子どもに付き添って病院に泊まることもできません。そこで、看護師たちが親代わりとなって子どもたちの世話をしていました。
それでも助けることができず、亡くなった子どもは少なくありません。70年以上がたった今も、川嶋さんはその子たちの名前を一人ひとり、フルネームで覚えているそうです。
それからずっと、「看護とは何か」「人に寄り添うとはどういうことか」を考え続けてきました。2007年には、すぐれた看護活動をした人に贈られる世界的な賞「フローレンス・ナイチンゲール記章」を受章しました。
今も全国で講演をし、そこで必ず語るのが、自分の戦争体験です。
「一人殺せば犯罪なのに、戦争になると大勢殺したほうがほめられてしまう。そんなことは、人間がしてはいけないことだと思います」
そんな川嶋さんが大切にしているのが、「一日に一つ知る」という「一日一知」ではなく、「一分に一つ知る」という「一分一知」。最近では、AIについて学ぶセミナーにもみずから足を運んだそうです。
95歳になった今も、知らないことを知ろうとする。そして、看護、命、平和について、次の世代に伝え続けています。

プロフィール

堀江弥太郎

左官

堀江弥太郎(ホリエヤタロウ)さん

「そんなこと聞かれても困っちゃうよ!」
そう言いながら、ユーモアたっぷりに、笑顔で子どもたちの質問に答えてくれる堀江さん。
1921年7月12日、東京生まれ。子どもの頃は、近所の子どもたちを引き連れて遊ぶガキ大将でした。中学校を卒業すると、左官(さかん。こてを使って、建物の壁や床などをきれいに塗る仕事)の道へ。それから80年以上、その技を磨き続けています。
21歳のとき、兵士として中国北部へ。24歳で戦争が終わると、当時のソ連のシベリアへ連れていかれ、4年間を過ごしました。
マイナス30度、40度にもなる寒さと、食べるものも十分にない暮らし。そこで堀江さんを助けたのが、左官の腕でした。大勢の日本人のなかで、左官ができる人はわずか3人。建物の壁や暖炉などをつくる仕事を任され、ときには貴重な白いパンをもらうことも。ほかの人より少しだけ、いいものを食べることができたそうです。
「だから俺は“シベリア貴族”になっちゃった(笑)」
日本へ帰ってからも、左官ひと筋。高い技術が認められ、2008年、87歳で、厚生労働省からすぐれた職人に贈られる「現代の名工」に選ばれました。その後、2012年に91歳で黄綬褒章も受章しています。
左官の道具「こて」で絵や模様をつくる鏝絵(こてえ)にも取り組み、自分で考えた方法や材料で、たくさんの作品を生み出してきました。
105歳の今も、自宅のアトリエで作品づくりを続けています。「人にあげるのがうれしい」と堀江さん。
そして取材が終わると、大好きなおせんべいをボリボリ。
そんな堀江さんの口ぐせは、「元気ですか?」。
「俺も元気だ。あなたも元気だ。それで十分なんだ」

A

死ぬことは、全然こわくないよ

死ぬことは、全然こわくないよ。

 

 

だって、戦争をしていたとき、となりで人がどんどん死んでいくのを見てきたから。

 

 

「痛え、痛え」って言いながら死んでいった人も、うんといた。

 

 

それはね、つらいよ。

 

 

一緒に戦っていた仲間が死んでいくなかで、こっちはなんとか生きのびた。

 

 

だから、死ぬのはこわくない!

 

取材・文/Questionary編集部

Q&A / 2026.10.11

プロフィール

堀江弥太郎

左官

堀江弥太郎(ホリエヤタロウ)さん

「そんなこと聞かれても困っちゃうよ!」
そう言いながら、ユーモアたっぷりに、笑顔で子どもたちの質問に答えてくれる堀江さん。
1921年7月12日、東京生まれ。子どもの頃は、近所の子どもたちを引き連れて遊ぶガキ大将でした。中学校を卒業すると、左官(さかん。こてを使って、建物の壁や床などをきれいに塗る仕事)の道へ。それから80年以上、その技を磨き続けています。
21歳のとき、兵士として中国北部へ。24歳で戦争が終わると、当時のソ連のシベリアへ連れていかれ、4年間を過ごしました。
マイナス30度、40度にもなる寒さと、食べるものも十分にない暮らし。そこで堀江さんを助けたのが、左官の腕でした。大勢の日本人のなかで、左官ができる人はわずか3人。建物の壁や暖炉などをつくる仕事を任され、ときには貴重な白いパンをもらうことも。ほかの人より少しだけ、いいものを食べることができたそうです。
「だから俺は“シベリア貴族”になっちゃった(笑)」
日本へ帰ってからも、左官ひと筋。高い技術が認められ、2008年、87歳で、厚生労働省からすぐれた職人に贈られる「現代の名工」に選ばれました。その後、2012年に91歳で黄綬褒章も受章しています。
左官の道具「こて」で絵や模様をつくる鏝絵(こてえ)にも取り組み、自分で考えた方法や材料で、たくさんの作品を生み出してきました。
105歳の今も、自宅のアトリエで作品づくりを続けています。「人にあげるのがうれしい」と堀江さん。
そして取材が終わると、大好きなおせんべいをボリボリ。
そんな堀江さんの口ぐせは、「元気ですか?」。
「俺も元気だ。あなたも元気だ。それで十分なんだ」

プロフィール

本多一夫

本多劇場グループ代表・俳優

本多一夫(ホンダカズオ)さん

「やっぱり夢は持ったほうがいいね」
1934年7月11日、北海道・札幌生まれ。意外にも、子どもの頃はとても人見知りでした。ひとりっ子で、ひとりで過ごすことも多かったそうです。
ところが、小学校5、6年生のころには、「小さくてもいいから、自分の芝居小屋を作りたい」と思っていました。卒業するときには、クラスのみんながその夢を応援してくれて、本多さん自身もおばあちゃん役で舞台に立ちます。
高校卒業後、本格的に芝居を学ぶため上京し、映画会社・新東宝へ。俳優として歩み始めますが、会社が倒産し、役者を続けることをあきらめます。その後、下北沢で小さな飲食店を始めたところ、これが大繁盛。やがて約40店舗まで店を増やしました。
それでも、芝居への思いは消えませんでした。
「芝居をやりたい人たちが、思いきりできる場所を作ろう」
そう考え、1982年に本多劇場をオープン。現在、本多劇場グループには9つの劇場があります。たくさんの役者や劇団が集まるようになり、下北沢は「演劇の街」と呼ばれるようになりました。
そして92歳になった今も、自ら舞台に立っています。
「そこで誰かに感動を与えられたらうれしい。人の喜びが、自分の感動なんだね」
舞台に立ち続ける理由を、本多さんはそう話します。
今、やってみたいのは、小さな劇場でのパントマイム(言葉を使わず、体の動きで表現する芝居)のひとり芝居です。
「やりたいと思ったことは、思いきってやることだよ」
子どもの頃の夢をかなえた今も、それでおしまいではありません。92歳の本多さんは、また次の夢を描いています。

A

死ぬ時は死ぬよ。ワハハハハ

死ぬのは自然なことだからね。寿命が来たら死ぬ。それだけのことだよ。

 

 

この歳になったら、いつ死んでもしかたないなと思っています。

 

 

死ぬ時は死ぬよ。ワハハハハ。

 

 

今92歳だけど、昔の仲間はみんな死んじゃった。一緒に飲むやつも、もうひとりもいないよ。まあ、92歳で飲み歩いているやつなんて、なかなかいないか(笑)。オレは今でも毎日、下北沢で飲んでるよ。

 

 

楽しく飲んで、家に帰ったらバタンキューでぐっすり眠る。それが健康の秘訣。

 

 

悩み? そりゃ大小いろいろあるけど、オレはなにごとも「なんとかなるさ」ってタイプだね。

取材・文/Questionary編集部

Q&A / 2026.10.11

プロフィール

本多一夫

本多劇場グループ代表・俳優

本多一夫(ホンダカズオ)さん

「やっぱり夢は持ったほうがいいね」
1934年7月11日、北海道・札幌生まれ。意外にも、子どもの頃はとても人見知りでした。ひとりっ子で、ひとりで過ごすことも多かったそうです。
ところが、小学校5、6年生のころには、「小さくてもいいから、自分の芝居小屋を作りたい」と思っていました。卒業するときには、クラスのみんながその夢を応援してくれて、本多さん自身もおばあちゃん役で舞台に立ちます。
高校卒業後、本格的に芝居を学ぶため上京し、映画会社・新東宝へ。俳優として歩み始めますが、会社が倒産し、役者を続けることをあきらめます。その後、下北沢で小さな飲食店を始めたところ、これが大繁盛。やがて約40店舗まで店を増やしました。
それでも、芝居への思いは消えませんでした。
「芝居をやりたい人たちが、思いきりできる場所を作ろう」
そう考え、1982年に本多劇場をオープン。現在、本多劇場グループには9つの劇場があります。たくさんの役者や劇団が集まるようになり、下北沢は「演劇の街」と呼ばれるようになりました。
そして92歳になった今も、自ら舞台に立っています。
「そこで誰かに感動を与えられたらうれしい。人の喜びが、自分の感動なんだね」
舞台に立ち続ける理由を、本多さんはそう話します。
今、やってみたいのは、小さな劇場でのパントマイム(言葉を使わず、体の動きで表現する芝居)のひとり芝居です。
「やりたいと思ったことは、思いきってやることだよ」
子どもの頃の夢をかなえた今も、それでおしまいではありません。92歳の本多さんは、また次の夢を描いています。

プロフィール

稲田弘

現役トライアスリート

稲田弘(イナダヒロシ)さん

1932年、大阪生まれ。子どもの頃は戦争のまっただ中。疎開(戦争などの危険から逃れるために、都会から、より安全な地方へ引っ越すこと)した先では、アメリカ軍の戦闘機に3度も狙われました。
運動が得意な少年だったのかと思いきや、「実はまったくそんなことなくて」。負けず嫌いでもなく、ご本人いわく、「つくづくスポーツとは縁のない人生」だったそうです。
大学では山岳部に入り、卒業後はNHKへ就職。仕事で住む場所が変わっても、近くに山があれば、休みの日にひたすら歩きました。それが「今の自分の体力のもとになっている」と稲田さんは言います。
そして仕事を定年で退職した60歳。なんと、その3日後に水泳を始めます。70歳でトライアスロン(水泳、自転車、ランニングの3種目を続けて行うスポーツ)に挑戦。さらに、水泳3.8km、自転車180km、マラソン42.195km、合計約226kmを決められた時間内にすべてやりきるIRONMANにも挑むようになります。
80歳でIRONMAN世界選手権を初めて完走し、同じ年代の選手の中で世界チャンピオンに。82歳の大会では、ゴール目前で力尽き、しゃがみこむ姿をとらえた一枚の写真が世界中に広がりました。あと少しでゴールだったその姿を見て、世界中の人から応援の声が届きます。
そして85歳。ハワイで行われたIRONMAN世界選手権を16時間53分50秒で完走。世界最高齢の完走者として、ギネス世界記録に認定されました。
「スポーツとは縁のない人生」だった少年が、70歳を過ぎてから世界で活躍するトライアスリートに。そんな稲田さんが大切にしている言葉が、「やればできる」です。
93歳になった今も現役。練習を続けるなかで、新しい体の動かし方を発見することもあるそうです。そんなときは、うれしくなって「やったー!」と叫ぶことも。
記録を持っていても、まだ新しい発見がある。次の挑戦を楽しみながら、稲田さんは今日も体を動かしています。

A

レース中に死んじゃうこともあるかもしれない、という気持ちはあります

今はね、あんまり怖いと思わないですね。

 

 

ただ、レース中に死んじゃうこともあるかもしれない、という気持ちはありますよ。

 

 

特に水泳のときは、よく思います。実際、レース中に亡くなっている人もいますからね。

 

 

自転車は全然平気なんですよ。むしろ今、調子が良くなってきたくらいなんでね(笑)。

取材・文/Questionary編集部

Q&A / 2026.10.11

プロフィール

稲田弘

現役トライアスリート

稲田弘(イナダヒロシ)さん

1932年、大阪生まれ。子どもの頃は戦争のまっただ中。疎開(戦争などの危険から逃れるために、都会から、より安全な地方へ引っ越すこと)した先では、アメリカ軍の戦闘機に3度も狙われました。
運動が得意な少年だったのかと思いきや、「実はまったくそんなことなくて」。負けず嫌いでもなく、ご本人いわく、「つくづくスポーツとは縁のない人生」だったそうです。
大学では山岳部に入り、卒業後はNHKへ就職。仕事で住む場所が変わっても、近くに山があれば、休みの日にひたすら歩きました。それが「今の自分の体力のもとになっている」と稲田さんは言います。
そして仕事を定年で退職した60歳。なんと、その3日後に水泳を始めます。70歳でトライアスロン(水泳、自転車、ランニングの3種目を続けて行うスポーツ)に挑戦。さらに、水泳3.8km、自転車180km、マラソン42.195km、合計約226kmを決められた時間内にすべてやりきるIRONMANにも挑むようになります。
80歳でIRONMAN世界選手権を初めて完走し、同じ年代の選手の中で世界チャンピオンに。82歳の大会では、ゴール目前で力尽き、しゃがみこむ姿をとらえた一枚の写真が世界中に広がりました。あと少しでゴールだったその姿を見て、世界中の人から応援の声が届きます。
そして85歳。ハワイで行われたIRONMAN世界選手権を16時間53分50秒で完走。世界最高齢の完走者として、ギネス世界記録に認定されました。
「スポーツとは縁のない人生」だった少年が、70歳を過ぎてから世界で活躍するトライアスリートに。そんな稲田さんが大切にしている言葉が、「やればできる」です。
93歳になった今も現役。練習を続けるなかで、新しい体の動かし方を発見することもあるそうです。そんなときは、うれしくなって「やったー!」と叫ぶことも。
記録を持っていても、まだ新しい発見がある。次の挑戦を楽しみながら、稲田さんは今日も体を動かしています。

プロフィール

幡本圭左

薬剤師

幡本圭左(ハタモトケサ)さん

「大切なその時々で、私は本当に人に助けられているの」
103歳の幡本さんが人生を振り返ると、不思議なくらい、必要なときに必要な人との出会いがあったといいます。
1922年、長野県生まれ。もともとは小学校の先生になりたかったそうですが、「これからの時代、女性も手に職を」という父親のすすめで薬剤師の道へ。東京薬学専門学校女子部(現在の東京薬科大学)を卒業し、戦争中は軍需工場(戦争で使うものをつくる工場)の研究室で働きました。
結婚後の1952年、30歳で東京・目黒に「安全薬局」を開きます。これから何を学ぼうかと迷っていたときには、「これからは漢方よ」と教えてくれる人が現れました。
年下の友人に「あなたはダメね」と言われても、「本当にダメなんだから腹が立たない(笑)」。人から何か言われたときも、まずは素直に聞いてみる。そんなふうにして、103年を歩んできました。
もちろん、長い人生には大変なこともありました。でも、起きてしまったことは仕方ない。「あわてない、急がない」が、幡本さんのモットーです。
もうひとつ、大切にしている言葉があります。
「身体髪膚(しんたいはっぷ)、これを父母に受く」。
中国の昔の本『孝経』にある言葉で、「自分の体は、すべて親からもらった大切なもの」という意味です。
2022年には、世界最高齢の薬剤師としてギネス世界記録に認定されました。
「海外の方が取材にやってきたりして、とても気恥ずかしいです」
そんなふうに笑う幡本さんは、103歳の今も「安全薬局」に立つ現役の薬剤師。お客さんと顔を合わせ、いろいろな話をするのが、今も楽しみなのだそうです。

A

この年になっても、素直に怖いです。

死ぬということは、やっぱり怖いですね。この年になっても、素直に怖いです。

 

 

本当におバカな言い方だけど、「あの部屋、とっちらかしたままだったら娘たちがびっくりするだろうな」なんて、まずそんなことを考えちゃうんです(笑)。

 

 

でも、それだけじゃありません。

 

 

私は今の暮らしが本当に幸せなんです。

 

 

「ああしてもらいたかった」とか、「こうしてほしかった」とか、そういうことが何もありません。

 

 

今は80代の娘夫婦と年寄り三人で暮らしていますけど、本当によくしてくれています。

 

 

だから、この暮らしから離れたくない。この幸せな時間が、このままずっと続いてくれたらいいなと思っています。

 

 

もちろん、人は生まれたら、いつか必ず死にます。

 

 

でも、自分が死ぬことよりも、今は子どもや孫やひ孫たちのことが心配です。

 

 

孫とひ孫は20人以上いますけど、みんな事故にも遭わず、大きな病気にもならず、元気でいてくれたら、それだけでいい。

 

 

もし、この先どうなるかを神様だけが知っているのなら、その子たちが苦しむくらいなら、私を先に呼んでください。

 

 

そんなふうに思います。

取材・文/Questionary編集部

Q&A / 2026.10.11

プロフィール

幡本圭左

薬剤師

幡本圭左(ハタモトケサ)さん

「大切なその時々で、私は本当に人に助けられているの」
103歳の幡本さんが人生を振り返ると、不思議なくらい、必要なときに必要な人との出会いがあったといいます。
1922年、長野県生まれ。もともとは小学校の先生になりたかったそうですが、「これからの時代、女性も手に職を」という父親のすすめで薬剤師の道へ。東京薬学専門学校女子部(現在の東京薬科大学)を卒業し、戦争中は軍需工場(戦争で使うものをつくる工場)の研究室で働きました。
結婚後の1952年、30歳で東京・目黒に「安全薬局」を開きます。これから何を学ぼうかと迷っていたときには、「これからは漢方よ」と教えてくれる人が現れました。
年下の友人に「あなたはダメね」と言われても、「本当にダメなんだから腹が立たない(笑)」。人から何か言われたときも、まずは素直に聞いてみる。そんなふうにして、103年を歩んできました。
もちろん、長い人生には大変なこともありました。でも、起きてしまったことは仕方ない。「あわてない、急がない」が、幡本さんのモットーです。
もうひとつ、大切にしている言葉があります。
「身体髪膚(しんたいはっぷ)、これを父母に受く」。
中国の昔の本『孝経』にある言葉で、「自分の体は、すべて親からもらった大切なもの」という意味です。
2022年には、世界最高齢の薬剤師としてギネス世界記録に認定されました。
「海外の方が取材にやってきたりして、とても気恥ずかしいです」
そんなふうに笑う幡本さんは、103歳の今も「安全薬局」に立つ現役の薬剤師。お客さんと顔を合わせ、いろいろな話をするのが、今も楽しみなのだそうです。

生きてきた中でいちばんパニックになったことはなんですか? 記事一覧 昔と今で、変わってよかったこと、変わらないことはなんですか?