Q&A

Q&A

Q

昔と今で、変わってよかったこと、変わらないことはなんですか?(11歳・女子ほか)

こたえたおとなたち
  • ITエヴァンジェリスト

    若宮正子さん

  • 看護師・日本赤十字看護大学名誉教授

    川嶋みどりさん

  • 横手山頂ヒュッテ 初代女将

    高相よしのさん

プロフィール

若宮正子

ITエヴァンジェリスト

若宮正子(ワカミヤマサコ)さん

1935年4月19日生まれ。今回登場する「Around 100歳」の先輩たちのなかでは、91歳の若宮正子さんが最年少です。でも、やっていることは誰よりも最先端です。
若宮さんが小学生のころ、日本は戦争をしていました。9歳で、空襲を避けて地方へ移る「学童疎開」を経験。戦争中は授業の代わりに働き、戦後は教科書がなく、授業ができませんでした。学校や社会が大きく変わるなかで、子ども時代を過ごしたのです。
その後、銀行員として働き、58歳でパソコンを衝動買い。今のように、買ってすぐ使える時代ではありません。本を読み、わからないことはくわしい人にたずねながら、少しずつ使い方を覚えました。この出会いが、その後の人生を大きく変えます。
81歳のときには、お年寄りも楽しめるゲームアプリ『hinadan』を開発し、Appleにも招かれました。現在は「ITエバンジェリスト」として活躍しています。「エバンジェリスト」とは、もともと宣教師という意味。新しい技術の魅力や、どんなことに使えるのかを、たくさんの人に伝える仕事です。
次々と新しいアプリやAIが登場するITの世界。若宮さんは、「全部わかろうとしなくてもいいんです。自分に必要なところだけを、つまみ食いするように取り入れればいい」と話します。プログラミングも、つくりたいものに必要なことだけを少しずつ覚えてきました。今回は悪天候のため、若宮さんだけオンラインで取材。ITを使いこなす若宮さんらしい取材となりました。
口癖は、「とりあえず、やってみよう」。海外旅行も大好きで、仕事や旅行で世界各地へ出かけます。91歳の今も、若宮さんは人生を思いきり楽しんでいます。

A

昔から変わらないのは、私は自分のやりたいことは自分でやる、ということ。

新しい技術によって、これまでできなかったことができるようになったのはよかったですね。

 

 

以前の技術は、主に仕事の手間を減らすためのものでした。でもAIは、「こうしたらどうですか」とアドバイスをくれたり、頼んだ絵をすぐに描いてくれたりします。

 

AIは「私にはできません」とか、「うまくいかないかもしれないけれど、いいですか」なんて言わず、できる範囲でまずやってくれる。

 

すごい人が現れたように感じます。

 

また、これからは、ロボットとも仲よくする時代になるでしょう。

 

子どもが少なく、お年寄りが増えている今、お年寄りのお世話をする人が足りません。人にしかできないことは人がやり、ロボットにできることは手伝ってもらえばいいと思います。

 

 

一方、昔から変わらないのは、私は自分のやりたいことは自分でやる、ということ。

 

結婚もせず、今も一人で暮らしていますから、誰にも遠慮せずやりたいことに挑戦しています。

 

 

取材・文/Questionary編集部

Q&A / 2026.10.11

プロフィール

若宮正子

ITエヴァンジェリスト

若宮正子(ワカミヤマサコ)さん

1935年4月19日生まれ。今回登場する「Around 100歳」の先輩たちのなかでは、91歳の若宮正子さんが最年少です。でも、やっていることは誰よりも最先端です。
若宮さんが小学生のころ、日本は戦争をしていました。9歳で、空襲を避けて地方へ移る「学童疎開」を経験。戦争中は授業の代わりに働き、戦後は教科書がなく、授業ができませんでした。学校や社会が大きく変わるなかで、子ども時代を過ごしたのです。
その後、銀行員として働き、58歳でパソコンを衝動買い。今のように、買ってすぐ使える時代ではありません。本を読み、わからないことはくわしい人にたずねながら、少しずつ使い方を覚えました。この出会いが、その後の人生を大きく変えます。
81歳のときには、お年寄りも楽しめるゲームアプリ『hinadan』を開発し、Appleにも招かれました。現在は「ITエバンジェリスト」として活躍しています。「エバンジェリスト」とは、もともと宣教師という意味。新しい技術の魅力や、どんなことに使えるのかを、たくさんの人に伝える仕事です。
次々と新しいアプリやAIが登場するITの世界。若宮さんは、「全部わかろうとしなくてもいいんです。自分に必要なところだけを、つまみ食いするように取り入れればいい」と話します。プログラミングも、つくりたいものに必要なことだけを少しずつ覚えてきました。今回は悪天候のため、若宮さんだけオンラインで取材。ITを使いこなす若宮さんらしい取材となりました。
口癖は、「とりあえず、やってみよう」。海外旅行も大好きで、仕事や旅行で世界各地へ出かけます。91歳の今も、若宮さんは人生を思いきり楽しんでいます。

プロフィール

川嶋みどり

看護師・日本赤十字看護大学名誉教授

川嶋みどり(カワシマミドリ)さん

現役看護師・川嶋みどりさん。看護師になってから、75年になります。
1931年5月18日、当時、日本が植民地として支配していた京城(現在の韓国・ソウル)で、6人きょうだいの長女として生まれました。父親の仕事のため、子どもの頃は家族で何度も引っ越し、戦争が終わると日本へ戻りました。
20歳で看護師になり、日本赤十字社中央病院の小児病棟へ。戦争に負けたあとの日本では、薬や医療機器が足りませんでした。さらに連合国軍の占領下にあり、その命令によって、親が子どもに付き添って病院に泊まることもできません。そこで、看護師たちが親代わりとなって子どもたちの世話をしていました。
それでも助けることができず、亡くなった子どもは少なくありません。70年以上がたった今も、川嶋さんはその子たちの名前を一人ひとり、フルネームで覚えているそうです。
それからずっと、「看護とは何か」「人に寄り添うとはどういうことか」を考え続けてきました。2007年には、すぐれた看護活動をした人に贈られる世界的な賞「フローレンス・ナイチンゲール記章」を受章しました。
今も全国で講演をし、そこで必ず語るのが、自分の戦争体験です。
「一人殺せば犯罪なのに、戦争になると大勢殺したほうがほめられてしまう。そんなことは、人間がしてはいけないことだと思います」
そんな川嶋さんが大切にしているのが、「一日に一つ知る」という「一日一知」ではなく、「一分に一つ知る」という「一分一知」。最近では、AIについて学ぶセミナーにもみずから足を運んだそうです。
95歳になった今も、知らないことを知ろうとする。そして、看護、命、平和について、次の世代に伝え続けています。

A

私は、もう一回、手仕事を見直したほうがいいと思うんです

昔なかったものは、たくさんありますよね。

 

 

今はAIなんていうものまで出てきました。

 

私、AIのセミナーにも行ってみたんですよ。便利なんでしょうけど、私はやっぱり、自分で調べて、自分で考えたい。

 

 

人間は自分で考えるから、その人にしかない考えや、想像する力が生まれるんじゃないでしょうか。もちろん、これからAIがもっと先へ行って、人間の代わりをする時代が来るのかもしれない。

 

 

でもね、便利になったことで、やらなくなったこともたくさんあるでしょう。

 

 

私は、もう一回、手仕事を見直したほうがいいと思うんです。

 

 

大学で教えていた頃、入学したばかりの学生たちに、「みんなで雑巾を縫おう」って提案したことがあります。ところが先生たちは、「針でけがをしたら危ないから」って反対しました。私は、おかしいなあと思いました。

 

 

昔は、おばあちゃんが「針に糸を通してちょうだい」って言うと、小さな孫が手伝っていました。それが当たり前だったんです。

 

 

看護でも、患者さんの体を拭くときは、タオルをしっかり絞れないと困ります。でも、実際にうまく絞れない学生もいました。

 

 

そんなとき、保育園の6歳の子どもたちが、卒園の記念に雑巾を縫っているのを見たんです。色とりどりの糸で、とてもきれいに縫っていました。6歳の子ができることを、大学生ができない。私は、それが少し寂しかったですね。

 

 

「手間暇」っていう言葉があるでしょう。時間はかかる。でも、自分の手を使うことでしか身につかないことがある。

 

 

それから、プラスチックもそうですね。

 

 

病院でも、エプロンやマスクを一回使ったら捨てる。便利になったけれど、その分、地球への負担も大きくなっています。

 

 

新しいものは大事です。でも、新しいから、便利だから、それだけでいいとは限らない。

 

 

本当に人間にとっていいものなのか。便利になることで、逆に失っているものはないのか。

 

 

そういうことも、自分で考えることが大事なんじゃないかなって思っています。

取材・文/Questionary編集部

Q&A / 2026.10.11

プロフィール

川嶋みどり

看護師・日本赤十字看護大学名誉教授

川嶋みどり(カワシマミドリ)さん

現役看護師・川嶋みどりさん。看護師になってから、75年になります。
1931年5月18日、当時、日本が植民地として支配していた京城(現在の韓国・ソウル)で、6人きょうだいの長女として生まれました。父親の仕事のため、子どもの頃は家族で何度も引っ越し、戦争が終わると日本へ戻りました。
20歳で看護師になり、日本赤十字社中央病院の小児病棟へ。戦争に負けたあとの日本では、薬や医療機器が足りませんでした。さらに連合国軍の占領下にあり、その命令によって、親が子どもに付き添って病院に泊まることもできません。そこで、看護師たちが親代わりとなって子どもたちの世話をしていました。
それでも助けることができず、亡くなった子どもは少なくありません。70年以上がたった今も、川嶋さんはその子たちの名前を一人ひとり、フルネームで覚えているそうです。
それからずっと、「看護とは何か」「人に寄り添うとはどういうことか」を考え続けてきました。2007年には、すぐれた看護活動をした人に贈られる世界的な賞「フローレンス・ナイチンゲール記章」を受章しました。
今も全国で講演をし、そこで必ず語るのが、自分の戦争体験です。
「一人殺せば犯罪なのに、戦争になると大勢殺したほうがほめられてしまう。そんなことは、人間がしてはいけないことだと思います」
そんな川嶋さんが大切にしているのが、「一日に一つ知る」という「一日一知」ではなく、「一分に一つ知る」という「一分一知」。最近では、AIについて学ぶセミナーにもみずから足を運んだそうです。
95歳になった今も、知らないことを知ろうとする。そして、看護、命、平和について、次の世代に伝え続けています。

プロフィール

高相よしの

横手山頂ヒュッテ 初代女将

高相よしの(タカソウヨシノ)さん

「何かにつけてどなりつける。えへへへ(笑)」
よしのさんは、山小屋のお客さんにもよくどなったそうです。でも、それは山で命を守るため。「そんなことしてたら死んじゃうぞ」と、遭難(山などで道に迷ったり、危険な目にあったりすること)を防ぐための決まりを厳しく教えてきました。
1924年5月4日、8人きょうだいの2番目として生まれたよしのさん。10歳の頃から、工事現場で働く人たちが暮らす「飯場」で、毎日三度の食事を作っていました。15歳で長男を出産し、20歳になるころには3人の子どもの母親に。やがて夫の耕作さんが戦争へ行くと、幼い3人の子どもをひとりで育てました。
戦争から帰った耕作さんと、1952年、長野県の横手山の頂上、標高2307メートルに「横手山頂ヒュッテ」を開きます。何もないところから始めた山小屋で、食事を作り、お客さんを迎え続けてきました。今では「日本一標高の高いパン屋さん」として、多くの人に親しまれています。
現在は孫の育永さん夫妻が3代目。よしのさんが大切にしている言葉は、「働かざるもの食うべからず」。今も山小屋に立ち、「なんかすることないかな」と周りを見渡します。
長い人生のなかでは、大切な家族との別れも何度も経験しました。それでも、ちょっとのことではへこたれません。
小学生のひ孫が学校へ行けなくなったときも、「大丈夫だ、大丈夫だ」と声をかけました。何ができても、できなくても、まずは生きている。それだけで十分。そんなふうにどっしり構えてくれるよしのさんの存在が、家族にとっても救いになっているそうです。
山では厳しく、人生にはおおらかに。
102歳の今も、よしのさんは山の上でお客さんを迎えています。

A

私たちのころは、食べるものがなかったからね

こたえようがないね。

 

 

今は、うちの孫たちが勝手に冷蔵庫を開けて、牛乳を水代わりに飲んでる。

 

 

それを見て、「牛乳なんか、親の目を盗まなきゃ飲めなかったんだぞ」って言うと、「盗むってどういうこと?」なんて聞かれてね(笑)。

 

 

私たちのころは、食べるものがなかったからね。

 

 

遊ぶものだって、めんこ(厚紙などでできた札を地面にたたきつけ、相手の札をひっくり返して遊ぶ)くらいしかなかった。

 

 

めんこがひっくり返れば、それだけでうれしかった。

 

 

そんなものしか、おもちゃなかったもん。

取材・文/Questionary編集部

Q&A / 2026.10.11

プロフィール

高相よしの

横手山頂ヒュッテ 初代女将

高相よしの(タカソウヨシノ)さん

「何かにつけてどなりつける。えへへへ(笑)」
よしのさんは、山小屋のお客さんにもよくどなったそうです。でも、それは山で命を守るため。「そんなことしてたら死んじゃうぞ」と、遭難(山などで道に迷ったり、危険な目にあったりすること)を防ぐための決まりを厳しく教えてきました。
1924年5月4日、8人きょうだいの2番目として生まれたよしのさん。10歳の頃から、工事現場で働く人たちが暮らす「飯場」で、毎日三度の食事を作っていました。15歳で長男を出産し、20歳になるころには3人の子どもの母親に。やがて夫の耕作さんが戦争へ行くと、幼い3人の子どもをひとりで育てました。
戦争から帰った耕作さんと、1952年、長野県の横手山の頂上、標高2307メートルに「横手山頂ヒュッテ」を開きます。何もないところから始めた山小屋で、食事を作り、お客さんを迎え続けてきました。今では「日本一標高の高いパン屋さん」として、多くの人に親しまれています。
現在は孫の育永さん夫妻が3代目。よしのさんが大切にしている言葉は、「働かざるもの食うべからず」。今も山小屋に立ち、「なんかすることないかな」と周りを見渡します。
長い人生のなかでは、大切な家族との別れも何度も経験しました。それでも、ちょっとのことではへこたれません。
小学生のひ孫が学校へ行けなくなったときも、「大丈夫だ、大丈夫だ」と声をかけました。何ができても、できなくても、まずは生きている。それだけで十分。そんなふうにどっしり構えてくれるよしのさんの存在が、家族にとっても救いになっているそうです。
山では厳しく、人生にはおおらかに。
102歳の今も、よしのさんは山の上でお客さんを迎えています。

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