自分でもわかんないよ。
パンがうまかったな、おすしがうまかったな。それだけのことだよ(笑)。
どうしてこんなに生きているのかなんて、わからない。
戦争で人が死ぬのも見たし、シベリアでは食べるものがなくて死んでいく人も見てきたからね。
だから、「よし、俺は生きていこう」って。
ただ、それだけだよ。
どうしてそんなに長生きできたんですか?(9歳・女子ほか)

左官
堀江弥太郎さん
横手山頂ヒュッテ 初代女将
高相よしのさん

「そんなこと聞かれても困っちゃうよ!」
そう言いながら、ユーモアたっぷりに、笑顔で子どもたちの質問に答えてくれる堀江さん。
1921年7月12日、東京生まれ。子どもの頃は、近所の子どもたちを引き連れて遊ぶガキ大将でした。中学校を卒業すると、左官(さかん。こてを使って、建物の壁や床などをきれいに塗る仕事)の道へ。それから80年以上、その技を磨き続けています。
21歳のとき、兵士として中国北部へ。24歳で戦争が終わると、当時のソ連のシベリアへ連れていかれ、4年間を過ごしました。
マイナス30度、40度にもなる寒さと、食べるものも十分にない暮らし。そこで堀江さんを助けたのが、左官の腕でした。大勢の日本人のなかで、左官ができる人はわずか3人。建物の壁や暖炉などをつくる仕事を任され、ときには貴重な白いパンをもらうことも。ほかの人より少しだけ、いいものを食べることができたそうです。
「だから俺は“シベリア貴族”になっちゃった(笑)」
日本へ帰ってからも、左官ひと筋。高い技術が認められ、2008年、87歳で、厚生労働省からすぐれた職人に贈られる「現代の名工」に選ばれました。その後、2012年に91歳で黄綬褒章も受章しています。
左官の道具「こて」で絵や模様をつくる鏝絵(こてえ)にも取り組み、自分で考えた方法や材料で、たくさんの作品を生み出してきました。
105歳の今も、自宅のアトリエで作品づくりを続けています。「人にあげるのがうれしい」と堀江さん。
そして取材が終わると、大好きなおせんべいをボリボリ。
そんな堀江さんの口ぐせは、「元気ですか?」。
「俺も元気だ。あなたも元気だ。それで十分なんだ」

A
自分でもわかんないよ
自分でもわかんないよ。
パンがうまかったな、おすしがうまかったな。それだけのことだよ(笑)。
どうしてこんなに生きているのかなんて、わからない。
戦争で人が死ぬのも見たし、シベリアでは食べるものがなくて死んでいく人も見てきたからね。
だから、「よし、俺は生きていこう」って。
ただ、それだけだよ。
取材・文/Questionary編集部

「そんなこと聞かれても困っちゃうよ!」
そう言いながら、ユーモアたっぷりに、笑顔で子どもたちの質問に答えてくれる堀江さん。
1921年7月12日、東京生まれ。子どもの頃は、近所の子どもたちを引き連れて遊ぶガキ大将でした。中学校を卒業すると、左官(さかん。こてを使って、建物の壁や床などをきれいに塗る仕事)の道へ。それから80年以上、その技を磨き続けています。
21歳のとき、兵士として中国北部へ。24歳で戦争が終わると、当時のソ連のシベリアへ連れていかれ、4年間を過ごしました。
マイナス30度、40度にもなる寒さと、食べるものも十分にない暮らし。そこで堀江さんを助けたのが、左官の腕でした。大勢の日本人のなかで、左官ができる人はわずか3人。建物の壁や暖炉などをつくる仕事を任され、ときには貴重な白いパンをもらうことも。ほかの人より少しだけ、いいものを食べることができたそうです。
「だから俺は“シベリア貴族”になっちゃった(笑)」
日本へ帰ってからも、左官ひと筋。高い技術が認められ、2008年、87歳で、厚生労働省からすぐれた職人に贈られる「現代の名工」に選ばれました。その後、2012年に91歳で黄綬褒章も受章しています。
左官の道具「こて」で絵や模様をつくる鏝絵(こてえ)にも取り組み、自分で考えた方法や材料で、たくさんの作品を生み出してきました。
105歳の今も、自宅のアトリエで作品づくりを続けています。「人にあげるのがうれしい」と堀江さん。
そして取材が終わると、大好きなおせんべいをボリボリ。
そんな堀江さんの口ぐせは、「元気ですか?」。
「俺も元気だ。あなたも元気だ。それで十分なんだ」

「何かにつけてどなりつける。えへへへ(笑)」
よしのさんは、山小屋のお客さんにもよくどなったそうです。でも、それは山で命を守るため。「そんなことしてたら死んじゃうぞ」と、遭難(山などで道に迷ったり、危険な目にあったりすること)を防ぐための決まりを厳しく教えてきました。
1924年5月4日、8人きょうだいの2番目として生まれたよしのさん。10歳の頃から、工事現場で働く人たちが暮らす「飯場」で、毎日三度の食事を作っていました。15歳で長男を出産し、20歳になるころには3人の子どもの母親に。やがて夫の耕作さんが戦争へ行くと、幼い3人の子どもをひとりで育てました。
戦争から帰った耕作さんと、1952年、長野県の横手山の頂上、標高2307メートルに「横手山頂ヒュッテ」を開きます。何もないところから始めた山小屋で、食事を作り、お客さんを迎え続けてきました。今では「日本一標高の高いパン屋さん」として、多くの人に親しまれています。
現在は孫の育永さん夫妻が3代目。よしのさんが大切にしている言葉は、「働かざるもの食うべからず」。今も山小屋に立ち、「なんかすることないかな」と周りを見渡します。
長い人生のなかでは、大切な家族との別れも何度も経験しました。それでも、ちょっとのことではへこたれません。
小学生のひ孫が学校へ行けなくなったときも、「大丈夫だ、大丈夫だ」と声をかけました。何ができても、できなくても、まずは生きている。それだけで十分。そんなふうにどっしり構えてくれるよしのさんの存在が、家族にとっても救いになっているそうです。
山では厳しく、人生にはおおらかに。
102歳の今も、よしのさんは山の上でお客さんを迎えています。

A
なんかすることがあるっていうのは、いいんじゃない?
そんなの、わかんないよ(笑)。
でも、なんかしてるのが好きなんだ。
編み物も好きだよ。お母さんがね、飯場でみんなのご飯を作りながら、その合間に靴下を編んでたの。
「布団が温まるまで、この靴下履きな、ほら」って。
ご飯を食べる箸4本で編んでた(笑)。それを見て、私も編み物が好きになった。
真剣にやれば二晩、ふつうでも三日あれば一足できる。数えきれないほど作ったよ。老人ホームにあげたりね。お年寄りは足が冷たいから、喜んでくれて。
なんかすることがあるっていうのは、いいんじゃない?
取材・文/Questionary編集部

「何かにつけてどなりつける。えへへへ(笑)」
よしのさんは、山小屋のお客さんにもよくどなったそうです。でも、それは山で命を守るため。「そんなことしてたら死んじゃうぞ」と、遭難(山などで道に迷ったり、危険な目にあったりすること)を防ぐための決まりを厳しく教えてきました。
1924年5月4日、8人きょうだいの2番目として生まれたよしのさん。10歳の頃から、工事現場で働く人たちが暮らす「飯場」で、毎日三度の食事を作っていました。15歳で長男を出産し、20歳になるころには3人の子どもの母親に。やがて夫の耕作さんが戦争へ行くと、幼い3人の子どもをひとりで育てました。
戦争から帰った耕作さんと、1952年、長野県の横手山の頂上、標高2307メートルに「横手山頂ヒュッテ」を開きます。何もないところから始めた山小屋で、食事を作り、お客さんを迎え続けてきました。今では「日本一標高の高いパン屋さん」として、多くの人に親しまれています。
現在は孫の育永さん夫妻が3代目。よしのさんが大切にしている言葉は、「働かざるもの食うべからず」。今も山小屋に立ち、「なんかすることないかな」と周りを見渡します。
長い人生のなかでは、大切な家族との別れも何度も経験しました。それでも、ちょっとのことではへこたれません。
小学生のひ孫が学校へ行けなくなったときも、「大丈夫だ、大丈夫だ」と声をかけました。何ができても、できなくても、まずは生きている。それだけで十分。そんなふうにどっしり構えてくれるよしのさんの存在が、家族にとっても救いになっているそうです。
山では厳しく、人生にはおおらかに。
102歳の今も、よしのさんは山の上でお客さんを迎えています。