子どもの頃からいろいろな音と周波数を浴びてきた
お父さんは言語学者で、60ヵ国以上まわって言葉の研究をしていました。
お母さんはインドネシア生まれで、ウルグアイとオランダ育ち。俺が中国生まれ、ハワイと東京育ちです。
なぜ中国で生まれたかというと、お父さんの仕事の関係です。彼は、広東省の有名大学に英語教育を持ちこんだ人なんです。だから、今中国人が英語を話せるのはお父さんのおかげ(笑)。
小さい頃からお父さんの話を聞いて「言語って面白いな」と思ったり、小学校5年生のときにはお父さんが他の国に行ったときのビデオを撮ってきてくれてそれを見たり、大人の人たちと話す機会が多かったり。とくになにかを教えてもらったという記憶はないけれど、視野が広がる環境でした。
そう考えると、子どもの頃からいろいろな音を浴びて、いろいろな周波数が体に入ってきていたと思います。
さらに、おじいちゃんは指揮者。お父さんは4歳からクラリネット、トランペット、フレンチホルンをやっていて、フレンチホルンの腕前がカリフォルニアのトップレベルで、そのおかげもあってオハイオ州にあるトップレベルの大学に入って。
でも、大学では音楽のスコアは完璧だったんだけど、勉強はやりたくなかったみたいで退学になって。授業の合間にスカイダイビングをしていて、ベトナム戦争が始まったらみずから軍に志願して、スカイダイビングの技術を活かせる部隊に入ったんです。
実は、お父さんはメンサ(IQ148以上の知能をもつ者からなる、世界最大の高IQ団体)で、勉強すると、本当に天才。でも、ダラダラするときはとことんダラダラ(笑)。俺もそこは似ているかな。
自分も、日本語を話せるようになるまでには本当に苦労しました。
20歳のときは「私の名前はシェンです、こんにちは」くらいしか話せなかったから。
今みたいに話せるようになるなんて、思いもしなかった。だから、やり続けることは成長につながるし、大切だなと思います。