「アメリカに出たかった」
子どもの頃は、一言で言うと“ガキ大将”でしたね。体がでかいし、バレーボールやっても野球やっても一番だったから。
昔からモノを作るのが大好きでね。実家が土建屋で、いろいろな工具があったり、リヤカーがあったり、オートバイもあったりした。そのリヤカーを使って三輪車を作って、ハンドルが曲がりきらなくて崖から落ちちゃったりしながら、いろんなものを作っていました。
あとは、私は新潟県の小千谷市出身なんですが、彫刻で市の品評会で賞をもらったり、福生寺という、由緒あるお寺があって、学校でそのお寺の絵を書いたらそれも金賞をもらったりして。その絵をお寺に寄贈したら、和尚さんがクレヨンを一式買ってくれてね。そのとき、なにかモノを作ることで、人が喜んでくれる喜びを知りました。これからは人のためになるようなモノを作りたいなあって。
「上の学校行きたいならどこでも行かせてやる。でも学校を出たら、金は一銭も出さない」父親にはそう言われて育ちました。自分は三男坊だから、きっと財産なんて残されないだろうし、中学2年生くらいから、アメリカナイズされた本とかいろんなモノを見ていて、アメリカに出たい、でも世界に出るには英語は勉強しないとヤバいな、と思って、NHKの英会話とかで勉強していました。自分でなにかを始めないと、という思いがありましたね。
雪深い新潟県の小千谷から神奈川県の茅ヶ崎に移り住んでからは、ベニア板でサーフボードを手作りして、海に浮かべて遊んでいました。でも、当時は波が来る前に板の上に立っていたくらいだから、何もわかっていなかった。
そんな中、17歳の頃、たまたま鎌倉の七里ヶ浜を自転車で通ったら、外国人3人がサーフィンをしていたんです。そこで本物のサーフボードを初めて見たんですね。英語は勉強していたので片言だけど話せたから、「今度はいつ来る?」と聞いたら、来週は江ノ島に行くって言ったんです。で、本当に約束通り来たの。私は、もしまた彼らに会えたら絶対サーフボードを売ってもらおうと思っていて、父にお願いして当時は大金だった3万円をもらって、彼らに「サーフボードを売ってほしい」と一生懸命伝えました。彼らも日本円の価値がわかっていなかったけど、私の勢いに負けたのか売ってくれて。でも、僕はいくら高くてもよかったんです、だってそれを買えば、サーフボードが何でできてるかの研究材料になるでしょ? その後、本物の板を作れるようになりたくて、24〜25歳の頃に5ヵ月本場カリフォルニアの工場にかけこんで、働いたこともありました。
それ以来、サーフィンが変わらず大好きで、今81歳ですが、現役のサーファーとしてこの夏も全日本に出場しましたし、サーフボードも自分でシェイプしています。私ね、“サーフィン業界の発明王”って言われているんです。発明の材料って日常の中にごまんとありますよね。今や湘南の海の風物詩ですが、自転車にサーフボードを乗せて走るキャリア”チャリボー”を発明したのも私です。考えることってなんて楽しいんだろう、って、つねづね思っています。
あと、チャンスはどこにでも、誰にでもあると思います。チャンスを逃さないように、みずからのスキルを上げておくことが大切です。81歳になった今も、サーフィンコンテストに出場していい結果を残すために、私は毎日海に入っています。